[#表紙(表紙.jpg)] エロ街道をゆく —— 横丁の性科学 —— 松沢呉一 目 次  第一章 エロ街道をゆく[#「第一章 エロ街道をゆく」はゴシック体]   1 性をめぐる旅に出るその前にエイズ検査へ   2 「保健所でナンパ成功率大」とは本当か   3 至上の快楽?! 前立腺マッサージ体験記   4 エイズ時代のコンドームマーケットとは?   5 泌尿器だけが知るオナニーのあれやこれ   6 投稿雑誌こそ愛無き時代の福音書である   7 ナニワのヘルス嬢、AV出たさに上京す   8 日本の奇祭・へのこ祭りに性神を見た!   9 「裸の触れ合い」ついにスタート   10 初めて体感、ソフトSMは歓喜の世界   11 己れに酔い、己れを知る女装の甘い罠   12 「裸の触れ合い」ついに相手のお部屋に出張   13 日米コンドームを使用して比較する   14 ※[#マル秘、unicode3299]ヘア写真の上手な撮り方教えます   15 ブルセラする女子高校生の本音とは   16 「裸の触れ合い」しつつ尻についても考える  第二章 正しいバイブレーターの使い方[#「第二章 正しいバイブレーターの使い方」はゴシック体]   1 女性とバイブの秘めたる関係   2 まずはバイブを買いにお店へいこう   3 アダルト・ショップのお客さまとは?   4 通信販売でバイブは売れるのか?   5 女にモテたきゃバイブを使おう!   6 知られざる性具の世界史   7 幻のバイブレーター工場をさがして   8 性具産業関係者に市民権を!   9 バイブ処女の初体験レポート・その1   10 バイブ処女の初体験レポート・その2   11 マッサージ器はバイブに替わるか?   12 バイブ道、未だ極め難しと知る  第三章 性器末SM入門編[#「第三章 性器末SM入門編」はゴシック体]   1 翔子女王さまの聖水は健康な味だった   2 はたしてSMは健康にいいのか?   3 SM娘にとってのSEXとは?   4 M女・美菜ちゃんとアヌスで実験   5 聖夜を彩るスカゲロまみれの乙女たち  あとがき、または長い略歴  文庫版あとがき [#改ページ] 第1章 エロ街道をゆく[#「第1章 エロ街道をゆく」はゴシック体] 1 性をめぐる旅に出るその前にエイズ検査へ[#「1 性をめぐる旅に出るその前にエイズ検査へ」はゴシック体]  セックスとは一体何なのか。最近私は朝から晩までこのことを考えている。なんて書くと、色ボケオヤジだと思われそうだし、事実そのような側面もあったりするが、しかし決してそれだけではないと強く主張しておく。セックスを突き詰めることは、混迷を極めるこの社会を解釈することでもあり、人間はなぜ生きているのかを模索することと同意でもあって、多くの人が考えているよりも、この問題はずっと複雑で難しい。従って、私は単なる色ボケオヤジではなく、複雑な色ボケオヤジであると思っていただきたい。  複雑な色ボケオヤジの私は、思うところあって、年に一回するかしないか、どちからといえばしない方が多いセックスレス時代を長らく続けてきた。もちろん、その間もセンズリをやめるような真似はしないが、セックスなんてこのまま一生しなくてもいいやと考えて、二年半ばかり、一発もしないセックスレス状態が続いたこともある。  セックスレスに突入したのはかれこれ六、七年前のことだ。ちょうどエイズが日本でも知られるようになった頃だったので、これ幸いと、「エイズが怖くてセックスができないエイズ恐怖症患者」日本第一号の名乗りを挙げたが、まだエイズは同性愛の病気と思われたりもしていたためか、あるいは誰も本気にしなかったためか、私の宣言は全然話題にならなかった。  本当のところはエイズと関係がなく、ある女性にちょっかいを出したために面倒が起きてしまい、「もう、いい大人なんだから、こんなバカなことはやめよう」と心に決めてセックス断ちをしたのである。セックスって中毒の一種だから、やらないでいるとまるっきり平気なもので(ただしセンズリはしていることが前提)、やらなければやらないほど、やる気がなくなってくる。ところが、たまにやってしまうと、飢餓感が雪崩のようにとめどもなく表出してきて、またすぐしたくなったりもする。アル中患者が病院でアルコールを抜いて、退院したその足で、「退院祝いに一杯くらいいいか」とワンカップ大関を買ってしまって元の木阿弥になったりするようなものだ。しかも、一発させてくれた女は、だいたい三日後もさせてくれたりもするので、ついうっかり一発やったあとで再びセックスをしない状態に戻すには、それなりの決意が必要だ。  ただし、私の場合はもともと生身の人間に対する欲望が薄いのではないかと思えるフシもあり、その前やその後に比べると、セックスをほとんどしない約六年間は、精神的にも肉体的にも非常に安定していたように思う。この期間は、セックスとは何か、欲望はどこからやってくるのか、センズリはなんで気持ちがいいのかを考えるのに格好の時間となって、重要な思索を私にもたらしてくれたのだが、本格的にセックス問題に取り組むにあたり、これでは何かと不都合が生じる。セックスについて偉そうなことを言っているのに、「でも私はもっぱらセンズリでして」とか「具体的なやり方は忘れましたが」とか言うと、説得力に欠ける。時には我がチンポを使ってのフィールドワークや実験をやらなければならなくなったりもしよう。  また、私がセックス断ちをした頃は、セックスをしないことはまだまだ「カッコ悪い」「モテない」「情けない」「センズリ男」といった評価が社会的にあったと思うのだが、その後、セックスレスなるものがあたかもブームのようにもなって、気づいてみたらたかがセックスしないだけで時代の先端に立ってしまっている。時代の先端に立つほどカッコ悪いものはないので、私はセックスレスを放棄することにした。  さらにエイズである。エイズの知識が行き渡るに従って、「エイズは乱れたセックスによって感染する病気」「自然から逸脱した人類への神からの警鐘」といったような、どうにもならない見方が出てくるようになったことへの苛立ちもある。本気で言ってんのかね。戦後ずっと進んできた性の解放に水を差し、そこに旧来の秩序を取り戻そうとするこれらの立場を推し進めるならば、快楽のためのセックスはすべて悪であり、あらゆる婚外セックスを白眼視することとなり、子供を作るための夫婦間のセックスのみが正しく、結婚制度そのものが強化されかねまい。エイズを契機にして、一見、影を潜めていたセックスへの罪悪感、個人の自由への反発がジワジワと滲み出してきたってことだろう。私はこれに違和感を覚えないではいられない。  そこで、本年度より「セックス・マシーン・プラン」(邦題:「淫獣計画」)を実施することになった。現在の私は、セックスをこなし、セックスにまつわる資料を漁り、人の話を聞きまくっているわけだが、やればやるほど、調べれば調べるほど、聞けば聞くほど、次から次へと新たなテーマが提出され、複雑さを増して謎は深まるばかり、セックスの意味がいよいよわからなくなる。  いくぶん唐突だが、そこで私は旅に出ることにしたのである。セックスを巡るこの旅によって、セックスの意味の一部でも解明できればと考えているところである。  旅に出るとなれば、まずは身体検査だ。旅の過程で、ゆきずりのセックスをしてしまうこともあろう、恋に落ちることもあろう。その際、エイズを感染させてしまっては申し訳なく、旅の途中で発病し、志なかばにして病の床に臥せるのも悔しい。本音を言うなら、「エイズになってもいいんだ」としてセックスをやりまくって、堂々、自分の生き方を最後まで完遂するような人に憧れるところもあって、エイズに感染する権利はあくまで守られるべきと思っている。しかし、やっぱり死ぬのは怖いし、他者に感染させる権利はない。もし既に感染しているのなら、旅のスケジュールや旅の方法を考え直さなければならないので検査は必須である。  私がエイズ検査に行くのはこれで二度目になる。前回は二年前で、バグワンの瞑想センターを取材するのにHIV陰性の証明書が必要だったためだ。取材するだけできれいなおねえちゃんとセックスすることになるんかいなとも思ったが、そういうこっちゃない。当時はセックスレス貫徹中だったから、陽性である可能性はほとんどなく、タバコを買いに行くような気軽な気持ちで検査し、お釣りをもらい忘れたような気楽な気持ちで結果を取りに行ったものだが、今回の検査ではそうはいかない。  中でも、ニューヨークの白人ナンパ男と何発もこなしている娘さんとコッテリ念入りにやらかしたのが一番の気がかりだ。セイフ・セックスを心がけてはいるのだが、後悔より先にチンポが立ってしまったその時は、口からもチンポからもウィルスが感染する可能性は充分にあった。しかも、一回のみならず、後悔よりチンポが五回くらい先に立ったのである。いくら感染率の低い病気だとはいえ、一発こっきりで感染してしまった人が現実にいるのだから、決して安心はできない。  ここで大きく人間は二種類に分かれる。一方は、安心できないから検査に行く人々で、もう一方は、安心できないから検査に行かない人々だ。後者の人は「治療法が確立しているわけではないのだから、陽性だとわかったところで何のメリットもなく、検査なんて行くだけムダ」と考えるわけだ。怖いことをできるだけ先回しにしたがる日本では、ガンでさえ知りたくないと考える人が多いのだから、エイズの場合はさらにその数を増すことは容易に想像できる。  ガンであることを知った時の反応は三種類ある。ガンに立ち向かい闘い抜く決意をする人、今までと変わらずにいる人、自暴自棄になったり失意のどん底に落ち込む人である。もちろん理想的なのはガンと闘う決意をする人で、こういったタイプの人は告知によってガンを克服することもあるし、そうでなくとも充実した日々を送れることだろうから、告知する意味があるってものだ。しかし、絶望するタイプの人は、知ることで死期が早まる場合があり、残された時間も「知らなければよかった」との悔いに満たされることだろうから、一律に告知をしていいというものではない。エイズにおいてもまた同様だろうから、検査をしないのもひとつの選択として尊重しなければならないが、私は自分がHIVに感染しているとしたら、断固それを知っておきたい。  規則正しい生活を心がけて体力が落ちないようにすることで発病を遅くすることはできるし、発病を遅らせる薬もすでにある。そのような方法で、感染してから十年生き延びることは充分可能だ。ことによると、その間に治療法が発見されないとも限らず、そうではなくとも、十年あれば何かまとまったことをひとつやふたつ成し遂げることだってできる。ダラダラ長生きするよりは、十年ぴっちり生きる方が長く生きたことになることだってあるのだ。  何ひとつ成し遂げられないのだとしても、自分の体や生き方くらい、自分で把握したいではないか。  もし陽性だったら、性交渉で感染したキャリアとしては、日本で初めて公表する覚悟もしている。そうなりゃ、講演料でボロ儲けでさあ。その金で新薬を買って、なんとか生き延びようとの魂胆だ。それに、なんでもかんでも一番というのは清々しい。  この連載もエイズ日記にして、原稿料を十倍にしてもらい、新薬を五錠くらい買うことにしよう。締め切りを守れなくても、きっと皆さん、うるさいことは言うまい。これだけでも随分楽だ。  エイズはゲイやジャンキーの病気ではなく、必ずしも乱れた性生活をしている者が患るわけでもない。異性間のセックスによって感染した人が、まだ発病していない状態の当り前の姿を晒さない限り、日本ではジクジクと陰湿なエイズに対する偏見もなくなるまい。私のようなものがエイズの感染者であることを公表しても、「ほらやっぱり、ああいうデタラメなヤツがエイズになるのだ」との偏見がいよいよ強まるとの気がしないでもないがな。  こうして、私は某月某日の朝九時半、検査のため新宿保健所に出かけたのである。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:性交渉で感染したキャリアとして、その後、平田豊氏が公表。正直なところ、先を越されてちょっと悔しかった。平田氏は一九九四年五月二十九日死亡している。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 2 「保健所でナンパ成功率大」とは本当か[#「2 「保健所でナンパ成功率大」とは本当か」はゴシック体]  前号で、もしHIV陽性だったら断固公表すると大見栄を切ったが、いざとなると、やっぱりビビる。宝くじでは二百円、年賀状のクジでは封筒セット、ビンゴゲームではTシャツ以上の賞品をもらったことのない私だが、今回こそは大当りするような悪い予感がする。検査を受ける人の約三百人に一人、陽性反応が出るとの話もあって(正しいかどうかは未確認)、これでは年賀状の封筒セットくらいの高確率である。日本人全体ならもっとうんと低いのだが、検査を受けるということは、なんらかの心当たりがあるので、このような確率になってしまうわけだ。三百人に一人という数字は痛いところを突く数字ではある。  検査の前日、平均台を使った新しいエイズ・ウィルスの検出法を試したら、うまく平均台を渡れず、医者に泣きつく夢を見たし、当日の朝も、思いきり淋しい夢を見て、涙で枕をしとどに濡らしてしまった。しかし、いまさら後には引けない。もし陽性反応が出たら、HIVタレントとして、某音楽事務所と契約する話まで既にまとめてしまっているのだ。  ところが、新宿保健所に着いたら、急に気が楽になってしまった。三十人ほどが順番待ちしているのだが、皆さん、えらく表情が暗い。暗い人を見ると、私は明るくなる性癖がある。男は東南アジアか新大久保あたりで女と遊んだらしき三十代から五十代の男性が圧倒的に多く、二十代はほとんどいない。なんとなくだが、若い世代は同性愛者が多いようでもある。中年男たちの表情は硬直していて、検査が出る前に緊張で死んでしまいそうにも見える。家族や会社のことを考えるともっともだが、だったら女遊びなんてしなきゃいいだろうによ。  私が数えた時点で、女性が九人いて、そのほとんどは二十代と思われるが、中には主婦らしき四十代女性もいる。「へへへ、奥さん、一体、何をしたんですか」なんて聞いてみたい気もするが、そういう雰囲気ではない。  三十歳前後と思われる男女のカップルや、女性二人組もいて、彼らは話し相手がいるせいか、さほどの緊張は見られず、女二人組は楽しそうでさえある。  このように、検査に来ている人たちの様子から日本の性の構造が透けて見える。私の推測が当たっているかどうかはわからないのだが、個人個人の下半身事情までが、見た目から推測できてしまうのがおかしい。 「こいつは二丁目で働いている」「この男はしばらくアジアを放浪していて、何度か現地の女とやった」「この女はバリで金出して少年とやった」「この女はハワイでリゾラバった」「このカップルは婚約している」「この男は、陽性だったら発表して一攫千金《いつかくせんきん》を狙っている。ついでにこれを原稿に書いて、小銭を稼ごうとしている」(最後のは私ね)などと読み取れるのだ。  特にこれは女性に顕著で、見た目がそのまま彼女らの人生を物語る。結局のところ、服やメイクなんてものは、個性などと無関係に、ある既存のスタイルに自分をはめこんでいるに過ぎないのだろう(こちらの推測が当っているとしてだが)。それにしても、エイズ検査に、肌むき出しのタンクトップやボディコン姿で来なくてもいいと思うんだがな。  そのような観察をしているうち、私の番となった。十分ほど待たされ、血を抜くのはあっという間だ。これで人生が決まるのかと思うと、あっけない。  それから検査結果が出るまで二週間。実は血を抜かれた瞬間に「オレは陰性だ」との確信も生まれたが、せっかくのチャンスだ、ここは徹底的に陽性であることを前提に、我が人生をとらえなおしておくことにする。  キャリアであることを発表した場合の、家族への中傷、近所の視線、大家の対応、周辺の友人らの変化などなどを細かくシミュレートすると、改めて簡単なことではないと思う。下手をすると、家を追い出され、買い物さえできないということだって有り得る。私の場合、私がHIVタレントとして所属する予定の事務所の連中が新たに住むところを探してくれ、買い物もしてくれることになっているから、面倒なことは彼らに任せておこう。  それよりも、一番必要なのは落ち込んだ時に近くにいてくれたり、ひたすら愚痴を聞いてくれるような存在だ。これまで普通に会ってくれていた人が疎遠になったりもするのは辛い。まるっきり逆に近寄ってくる人もいるに違いない。使いようによっては金になる存在だからだ。とりわけマスコミの人間にとってはネタとして格好の対象である。マスコミは、こちらとしても利用しがいもあろうし、あちらはあちらで好意だったりすることもあろうが、キャリアだからといって突然仲良くなろうなんて思うヤツらを信用するわけにもいくまい。ことによると、死そのものよりも、孤独感や人間不信におちいることの方が辛かったりもしそうで、信頼できる人間が近くにいてくれさえすれば、なんとか不安や恐怖から逃れられるのではないか。  現在親交のある人の中で誰がそういった存在になってくれるのかというと見当もつかない。何人かの顔が浮かぶが、ただ一人として、私はそういった相手を作ってこなかったようにも思えるのだ。これから私は急に友だち思いの人間になったりするかもしれないが、気持ち悪がらずに付き合っていただきたい。  結局はこれなのだと思う。もし友だちが感染したとしたら、私はしっかり話を聞いてあげるし、朝まで一緒にいて欲しいというなら、時間の許す限りそうしてあげよう。自分が必要なことを他人にやってあげればよいってことだし、何もエイズってことじゃなくて、日常的にそれをやっていればいいってことでもある。  そして、残された時間、自分が何をやるのかだ。相も変わらず原稿ばかり書いているような気もするし、こんな辛気臭いことは一切やめて、本当に旅でもするのかもしれない。自分が本当にやりたいことって何なのか。それを今自分がやっているんだろうか。もしかすると、それこそエイズに関する啓蒙をして全国を歩くことが今までやってきた何よりもやりがいのあることになったりするのかもしれないという気もする。  日々やらなければならないことに追われて、考えることなど滅多にないことを真剣に考えることができただけでも、エイズ検査の意義は十分にあった。たぶん人によっては、検査をしたあと、ただもうひたすら「陰性でありますように」と祈るような気持ちで二週間を過ごすんだろうが、それではもったいない。どうせならここから何か得た方がよく、その期間として二週間というのは非常に適切かとも思う。  いよいよ私の人生が決まる発表の日がやってきた。こーんなに大事な日なのに私は寝坊してしまい、検査結果の受け取りは、それからさらに二週間後になってしまった。二週間は適切だが、一カ月はちょいと長すぎるなあ。  さらに自分の人生をとらえ直す二週間が過ぎ、今度は時間にも遅れずに保健所に着いた。見ていると、時間に遅れてくるのが多い。けしからんな。オレなんて一度すっぽかしたけど。  この頃ともなると、心の整理もすっかりできて、陽性なら陽性でどんと来いってなもんだ。だいたい毎朝、小便を飲んでいる私がエイズになるハズもないのであるが、なったらなったで、一日十杯小便飲んでやらあ。これでエイズを治せば、世界を小便で救った男として、一生食いっぱぐれはない。手記のタイトルは『小便男、エイズを治す』だな。  といったように、どこかで陽性である期待まであった不謹慎な私に、担当の女性は袋の中を確かめて、「ハイ、陰性ですよ」とあまりにあっけなく告げた。脅かすとか、気をもたせるとかしてくれてもいいのにと思い、「それだけですか。もっとなんかないんですか」と思わず言って笑われてしまった。  そのあとも保健所に居座って人々を観察した。一人の中年女性(主婦にしては派手でちょっと乱れた雰囲気を持っているが、水商売というような感じでもない)が別室に呼ばれていたが、あれはナニなんだろうか。  見ていると、結果を聞いたあと、真っ先に公衆電話に向かうのが多く、特に女性はその傾向が強い。感染してから二、三カ月しないと抗体反応が出ないため、正確を期するためには、検査の前三カ月は禁欲していた方がよい。陰性の結果が出たら、辛抱たまらなくなって、「これから、一発しましょ」などと言っているのだろう。だから、検査発表の日にナンパするのが、日本で一番成功率が高いのである(私が言っているだけだが)。  さっそく、そこに出てきた、女子大生らしきミニとタンクトップの女の子に声をかけてみた。聞けば、女子大生でなく、十七歳の女子高生だという。女の年齢はよくわからん。ゆっくり話を聞きたかったが、このあと約束があるという。一発の予定をもう入れてあるのかもしれない。簡単に立ち話をしたのだが、普段六本木で遊んでいて、友達の黒人とコマしてしまったので、不安になってやってきたとのことだ。  次に声をかけたのは二人組。片方はちょっとかわいいが、もうひとりは顔が焼けてボロボロで、どっちが前かもよくわからない。たぶん春にハワイで男漁りでもやってきて、この夏早くもまたやってきたのではないか。彼女らは、これから大阪に行くとかで、ほとんど話をしてくれず、逃げるように立ち去る。おかしいな、ナンパ成功率日本一のハズなのにな。  次にまたタンクトップの女子大生らしきのが出てきた。彼女も恐らく外人相手にやらかした口だろう。この子は協力的で、喫茶店に行って詳しい話を聞くことに成功。  彼女は、お嬢さん、お坊っちゃんの行く学校として知られる某有名大学に通う十九歳だ。一年くらい前から、日本にいる南米出身の男とつきあっているのだが、最近、その友人がエイズらしき病気で死んだ。彼女も会ったことのある人間だったので、不安になり、検査をしてみたのだそうだ。  彼女は高校の時を除けば、外国人としか付き合ったことがないという。 「外国人じゃなきゃダメだとか、日本人はイヤというんじゃないんだけど、どうも日本人の男は私に興味がわかないみたいだし、なんだか日本人の男の子ははっきりしなくてまどろっこしい」  物事をハッキリ言うタイプなので、彼女と同世代の日本人の男が彼女を敬遠するのはわかるような気もする。彼女は腋毛を伸ばしたままで、ここに彼女の強い意志が感じられる。エイズと何の関係もないけど、腋毛はいいっすよね。  この前につきあっていたアメリカ人のボーイフレンドも、しっかり検査しており、そういった環境もあるためなのだろう。彼女はエイズの正しい知識をしっかり持っているのだが、大学では、そういう話は全く出ず、時々話が出たとしても、エイズは恐いという一般的な話で、皆、「まさか自分は」と思っており、何かあると「エイズじゃないの」と囃し立てるようなエイズに対する蔑視だけは広がっている。友達でキャバクラで働いているのがいて、彼女とだけはそういう話もするが、彼女は男性関係も激しく、去年の十二月、リンパ腺が腫れたり、熱が出たりしたので、危ないかもしれないという。たぶん風邪か何かだとは思うのだが、まるでエイズが他人事である空気がある一方で、身近でこういったことが起きてもおかしくない現実が着々と広がっているのだ。  エイズに限らず、彼女には、あれこれ一時間ほど話を聞かせてもらい、彼女もその後、用事があるというので、そのままお別れした。というわけで、ナンパ成功率日本一という説はあまり当てにならないのではあったが、たったの千六百円の検査料で、これほど刺激に満ちた体験ができ、原稿まで書けるのだから安いもんだ。  次回は、イケイケのおねえちゃんがごっそり検査に来ているらしい港区の保健所で検査してみることにすっかな。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:この原稿は顰蹙を買うんじゃないかとも思ったが、これを読んで検査に行く気になったという人もいて、おおむね好評だった。どうも、エイズというだけで暗く深刻にとらえる風潮があり、事実、深刻にならざるを得ないところもあるが、そのことがエイズについて考えること、検査に行くことを遠ざけ、また、セックスすることさえも罪悪であるかのような空気を醸し出したりもする。あえて明るく楽しくする必要もなかろうが、この原稿にある通りに検査に臨んだ私としては、それをそのまま原稿にするしかない。  エイズにはしっかり向かい合うべきだし、セイフ・セックスを徹底する必要もあろう。それにしたって、セックスはあくまで個人の自由であり、強制的に検査をさせるべきでない。他者を巻き込むことは許されないが、エイズになることを覚悟の上でコンドームなしでセックスしまくるのもまた自由ではある。  なお、私は、これ以降、検査に行っていない。平田豊氏亡きあと、DJのパトリックが活躍しているので(「週刊SPA!」連載中)、今更発表してもなあ、やるならやっぱり一番がいいよなあというところである。また、いずれ行きますけども。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:その後、風俗ライターになったため、十回くらいは検査に行っている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 3 至上の快楽?! 前立腺マッサージ体験記[#「3 至上の快楽?! 前立腺マッサージ体験記」はゴシック体]  三〇ページの写真を見ていただきたい。私の尻である。|X《エツクス》のヨシキと同じようなものと思っていただければ幸いである(ちょうどこの頃、ヨシキが広告で全裸になっていた)。毛がハミ出ていたりするかもしれないが、陰毛だけ取り出せば、宮沢りえや島田陽子のとたいして違いはない。  私は肛門の快楽を知らないことに、以前から大変悔しい思いをしてきた。肛門の快楽を知っている複数の人に言わせると、「快楽三倍、出る量三倍、回復力三倍」「思わず叫ぶ」「女性の快感ときっと似ている」「チンチンの快楽の比じゃない」と口を揃え、あるゲイは「死んでもいいって本当に思うのヨ」とウットリした目で言う。ゲイが肛門にチンポを入れるのは、それ自体が肉体的快楽であるからで、単なる精神的な快楽というわけではない(ただし、ゲイの誰もがアナルセックスまでやるわけではないので誤解なきよう)。  そこで、ある女性に尻を突き出して「バイブを入れてみていただけないだろうか」と頼んでみた。アナルセックス体験のある彼女は快諾してくれたが、バイブの先っちょを入れただけで痛くて耐えられず、試みは失敗に終わった。痔であることをすっかり忘れていたのである。  この話を別の女性に話したら、やはりアナルセックス体験のある彼女は「最初からバイブは無理よ。処女にバイブを使う人がいる?」と、わかりやすい比喩をし、「私が今度指でしてあげる」と申し出てくれたのだが、彼女に会う機会のないままに日々は流れた。それにしてもアナルセックスをしている女性って多いんだなあ。  その後、代々木忠著『プラトニック・アニマル』(情報センター出版局)を読んだら、前立腺の快楽でAV男優が気絶した話が書いてある。やはり極上の喜びらしい。  ここで私は疑問を抱いた。前立腺は精液の半分以上を為す前立腺液を分泌する器官で、膀胱の下に尿道を挟む形で位置する。当然男にしかないんだが、どうしてここがそれほど気持ちいいんだろうか。肛門の中からしか触れられない前立腺が気持ちよくても、何の役にも立たないし、もし男が皆この快楽に目覚めたら、通常のセックスをやめてしまい、人類は滅びるかもしれないではないか。ここが気持ちいいのは、何か理由がなくてはならず、それはゲイのためでも、前立腺マニアのためでもない。もしかすると、よりウンコをしたくするためか。だから、男には便秘が少ないのか。脱糞って気持ちいいもんな。この説は大変面白くて捨て難いが、私は女の快楽が男の体に残ったのが前立腺ではないかと考えた。  人間は女の体が基本で、男はそのヴァージョンだ。チンポがクリトリス、金玉袋が陰唇、睾丸が卵巣といったように、男女の生殖器は、それぞれに相似器官を持つ。前立腺の相似器官が何に当たるのかはわからないが、Gスポットや子宮口の快楽に対応して、用もないのに肛門内が気持ちいいというわけだ。何の役にも立たないくせに男にも乳首があるようなものであり、乳首が感じるという男もいたりするのは、女の快楽の名残だろう。  こう考えると、「前立腺は女の快楽に近い」との指摘も納得できる。男の何倍も気持ちがいいらしい女の疑似体験が前立腺によって可能となる。いよいよ、これを知らずしては死ねない。  というわけで、今回前立腺の快楽探究に協力してくれたのは大塚美療である。美療とついているところは、前立腺への刺激を取り入れたマッサージをやってくれる風俗店と考えていただいておおよそ間違いない。  大塚美療には、ムチムチの女性九名がいて、皆さんの写真をお見せできないのが残念だが、相当の美人揃いである(中でも一人ものすごくかわいいのがいて、編集者のYは思わず絶句した)。皆さんに話を聞くと、こういった店に来る客の誰もが前立腺マッサージを好きというわけでもなく、単なるファッション・ヘルス的なサービスを望む客も多いそうだ。前立腺の快楽を求める客でも、なかなか気持ちよくはならない人もいて、最初からすぐに気持ちよくなれるのはごく少数ということである。前立腺の快楽は、ある程度の訓練が必要らしい。これまた女性の膣快楽と同じってことか。  また、時には勃起しないで射精することもあるという。前立腺は女性の相似器官であるためでなく、男の射精の快楽に何か関わっているのかもしれないが、どっちにしたって、勃起しないでも出てしまう意味がわからない。このほかに、笑える客の話なども聞いたりもしたのだが、そんなことより、さっさと肛門に指を入れてもらうことにしよう。  ここは出張制なので、この仕事三カ月目の順ちゃん(二十三歳)とホテルに入り、ノーマル・コースをやっていただくことにした(チンポをしゃぶっていただけるコースや3Pのコースなどがある)。  まず、パウダーを使った全身マッサージ。肌に触れるか触れないかくらいのタッチは男にとっても大層気持ちがよく、眠ってしまいそうにさえなる。しかし、性的な快楽というのとは違っていて、これで勃起してしまうわけではない。  そして前立腺である。私は四つん這いになり、手袋をした順ちゃんは、オイルを肛門周辺に塗り、ゆっくりと肛門の緊張をほぐしていく。こうやって優しくやらないといけない。最初からバイブを入れるのはやはり無謀であった。やがて指が肛門内に入る。そして、指は前立腺に達し、私は「オオッ」と思わず声をあげ、体を震わせた。確かに声は出るんだけど、気持ちがいいというのとはちょっとちゃうぞ。息苦しいようなシビレが走り、チンポは立たないままだ。 (挿絵省略)  肛門の入り口は敏感だが、奥のことはよくわからない。肛門の中で指を曲げたりしていても、どうもその様子が把握できず、前立腺を触られているらしきことがわかっても、それが自分の体のどこにどう位置しているのかはっきりしない。この感じも膣内に似ている。クリトリスかGスポットかなどといった論争があって、自分の体なのに、女はどうしてそんなこともわからないのかとの疑問があったのだが、女性の膣内に指を入れながらインタビューすると、女性は膣内のことをよく把握できないことがわかる。膣の中は男が考えているよりもずっと鈍く、Gスポットというものが存在していることは間違いないが、その快楽はしばしばどこから来ているものか本人ははっきり識別できなかったりするのである。男の場合は亀頭と前立腺に距離があるため、区別できないなんてことはないが、それにしても、肛門内のどこをどう触っているのかは判然としない。  全然気持ちよくならないので、一旦やめてもらい、休憩のあと、再度挑戦することにした。今度はどうやら指を出し入れしているようだ。肛門の入り口の感触でこのことくらいはわかる。私はまたしてもシビレながら、「ウウウウウ、ウンコが出るぅ」と声を出してしまった。肛門を通るのはウンコと相場が決まっているので、指を動かすと、ウンコが出るような感じがするのだ。  幾分刺激に慣れたようだが、これで勃起したり、ましてや射精するなんてことは相変わらず有り得そうにない。のべ数百人のお相手をしている順ちゃんの場合でも、チンポに一切触れないまま肛門の刺激だけで射精したのはこれまで三人しかいなかったそうなのだ。  いつか必ず肛門で達する日を夢見て、今日のところはフィニッシュとしてチンポをしごいていただいた。おおー、よーけ、精子が出たぞ。未熟な私には、この方がうんと気持ちよか。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:担当編集者のYが、この原稿を読んでこんなことを私に言った。 「前立腺の快楽については、またフォローの記事をやりましょう。そうじゃないと、取材を名目に性感マッサージをやりに行きたかっただけと思われてしまいますから」  まいったな。本当は取材を名目に性感マッサージをやりに行きたかっただけなんだがな。とはいえ、前立腺の快楽や女性のアヌスの快楽については、まだまだわからないことがあるので、いずれもっと突っ込んだ取材をやりたく思い、のちに「S&Mスナイパー」などで実現することとなった(二六三ページ参照)。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:精子を検査するため、医者に前立腺マッサージをやられた人に話を聞いたところ、やはり勃起しないまま射精したのだそうだ。相手が美人看護婦だったらまた違ったかもしれないが、この時、彼は少しも気持ちがいいと思わなかったという。女性の中には、性的妄想を一切抱かずに、ただ物理的な快楽としてオナニーをするのもいる。性感マッサージで皮膚を微妙に触られることが性的な快楽にはならなかった私だが、これとて極上の性的快楽になる人もいるのだろう。このことから、性的快楽というのは、それ自体無条件に成立するものでなく、非常に精神性が強く、あいまいなものでさえあることがわかる。実は性的快楽の実体さえもわかっていないのが我々の科学というものだ。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:前立腺の快楽は女性の快楽の相似との説は、私のオリジナルだと思っていたが、その後読んだA・ダラス他著『Gスポット』(講談社)の中にも触れられていた。では、前立腺の相似器官とは何かだが、知り合いの産婦人科医によると、膣の潤滑液を分泌するバルトリン腺ではないかとも言う。機能からすると、確かにそう考えられるが、よくはわからない。前立腺の快楽を突き詰めていくと、Gスポットの秘密も何かわかりそうな気もする(医学的にはGスポットが何なのか全然わかっていない)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 4 エイズ時代のコンドームマーケットとは?[#「4 エイズ時代のコンドームマーケットとは?」はゴシック体]  私の目はここ数日腫れている。コンポステラのサックス奏者・篠田昌巳(元じゃがたら)が死んでしまった。音楽家としても、人間としても、篠田氏がもうこの世にいないと考えるのは、あまりに辛い。篠田氏は、十年ほど前、大人のオモチャ屋でバイトをしていたことがあって、死の三日前、大人のオモチャの原稿を書いていた私は、篠田氏のところに電話をしようとした。そうするまでもなく原稿ができてしまったので、結局電話をしなかったのだが、今になってみると、電話をすればよかったとも思うし、最後の会話が大人のオモチャについてでなくてよかったとも思う。  さて、前回公開した私の美しい尻に対し、あちこちから「尻、見たよ」との電話があった。いくら丹精込めた原稿を書いても反響などないのに、ケツを晒しただけでこの騒ぎ、私の原稿はケツほどの価値もないことを思い知らされた。  しかし、あれはまだ序の口だ。先日私は、「ビザール・マガジン」の取材で、目黒「ラビリンス」の翔子女王様にいじめていただいた(二一二ページ参照)。抵抗すると、ムチでお仕置されたりビンタされたりするので、されるがままになっていた私の尻に、翔子女王様は張形を挿入なさった。着々と開発される私のケツ。そのうちゲイにチンポでも入れていただこうかと思う。その際は「コンドームをつけてネ」とお願いするつもりだ。  このように、エイズによってコンドームへの注目が高まる中、コンドーム専門店「ピーチーズ原宿店」が一九九二年十一月二十四日に開店した。アメリカにはコンドマニアとかコンドマートといった専門店があったりするが、この日本でそんなもん成立するのかいなとの疑問を抱きつつ、原宿COXYビルに出かけてみた。  まあ、ファンシーなお店。ちょっと見には、何の店かわからない。コンドームというと「後ろめたい」「気まずい」「恥ずかしい」といったイメージがつきまとうものだが、この店には、そういった印象がまるでない。あまりになさすぎて、いかがわし好きの私には入りにくいくらいだ。店長の侶木昭一氏がまた爽やかさんである。 「無謀だとよく言われますよ。でも、上野で三年間エッチ・グッズ専門店をやってきて、その経験から、これはいけると踏み切ったんです」  もともと侶木氏の専門は、ファンシー・グッズの卸し業である。この業界は競争が激しく、侶木氏はエッチ・グッズに商品を絞ることで他との差別化を図った。これで成功を収め、そのアンテナショップの意味で上野にピーチーズを出した。こちらは男性単独の客はお断りだ。  エッチ・グッズというと、私なんぞは、すぐにバイブや電動フグを思い浮かべ、また篠田氏のことを思い出して涙してしまうが、チンチン型のチョコやキャンディなど、ビーチーズが扱っているのは女の子でも買えるような、かわいくて笑える商品ばかりである。  これがマスコミに受けて、雑誌やテレビなどから百本以上の取材があり、女性たちがわんさか押しかけた。この店の商品数の三分の一がコンドームで売り上げも同じく三分の一と、コンドームが主力商品である。買いやすい環境でさえあれば、女性もコンドームを積極的に買うってわけだ。  これは当然のことで、望まぬ妊娠で、心身ともに傷つくのは女性だ。無責任な男たちに避妊を任せておくわけにはいかない。感度が落ちるとか、精子が中で出る感じがいいというコンドーム嫌いの女性もいたりはするが(前回書いたように、膣内は思いのほか鈍感なので、こういった女性は、どこかで子供ができるかもしれないセックスを望んでいたりもするんじゃないか)、我々男が思っている以上に、女性はコンドームをつけて欲しがっている。 「相談コーナーを設置したら、相談のほとんどは、男がコンドームをつけてくれないのだが、どうしたらいいかというものでした」  このように、侶木氏は、女性のコンドームに対する関心の高さを実感し、コンドーム専門店を思い付いた。 「新宿だと、いかにもになってしまうので、原宿にしようと決めたんですけど、どこもかしこも断られました。COXYビルも、当初はいい返事をいただけなかったんですが、ここ数カ月、コンドームのイメージが変わったせいか、十月にようやくOKになりました」  先日コンドームについてあれこれ調べる機会があったのだが、メディアにおけるコンドームの扱いが大幅に変わったのは、不二ラテックスがミチコ・ロンドンのコンドームを出して以降だ。あの商品が出た意味は大きい。 「まるで宣伝をしていないのですが、おかげさまで、着々とお客さんが増えています」  などと我々が話している横で、ホントにまたこれが驚くほど人が来る。その七、八割が女性だ。中高年の客もいるが、私が見た範囲で実際に買っていくのは二十代三十代ばかりだ。何の店かわからずに入ってきて、やがて顔を赤らめて出て行くのもいるが、ほとんどのお客さんは照れている様子がない。会話を聞いていると、「かわいい」「これ、面白そう」などと言っていて、私の方が照れたりする。四十代の夫婦と思われるのもいて、「こんなのプレゼントするといいわね」「でも、もらってくれるかな」と話している。いい光景である。  侶木氏によると、こんな客もいた。 「二週間ほど前、十七、八の娘さんを連れたお母さんが来たんですよ。長女が二十歳になり、そういう機会もあるだろうから、コンドームを渡そうと思うのだが、どれがいいでしょうかと聞くんです。もう一人の娘を連れて来るのもいいですよね」  次女を連れてきたのは性教育のつもりだったのかもしれない。なんにしても、日常的にこういった話を親子の間でできるような家庭なんだろう。「うちの娘に限って」などと考えたがるのが多い中、このような母親を持った君たち姉妹は幸せである。お母さんに感謝したまえ。  二、三人で来る客が多いが、二十歳か二十一歳のかわいい女性が一人でコンドームを買っているのを発見、声をかけてみた。某テレビ局に勤める二十四歳だそうだ。いつまでたっても女性の年を見抜けない私である。 「今日たまたま、この店を見つけました。買ったのはクリスマス・パーティのプレゼントです。以前から、プレゼントに、よくコンドームを買ってました。いろいろな種類があって、値段もプレゼントとして手頃ですよね。みんな使うものだから無駄にならないし。今までは薬局で買ってましたが、これからは、この店を愛用することになりそうですね」と、テキパキ答えてくれる。  こういう子って好きだなあ。今私が世界で一番好きなのは、翔子女王様とこの娘さんだ。とても好きになったので、「普段の避妊法は?」と、聞かなくていいことまで聞いてみた。 「基礎体温です」  それは危険だ。私の精子のようにずぶといものだと、体内で一週間以上生き延びたりする。などと、私の精子が彼女の中で生き延びる状況まで想像して心を痛めるこたぁないよな。  カップルの客を観察すると、女性は積極的に手に取ったりしているのに、男は「もう行こうよ」と女の袖を引っ張ったりしている。やはり男と女では、コンドームへの思いが相当違うようだ。コンドームを自ら買ったり、持ったりする女性が着々と増えている一方で、男は「女がコンドームを持つのははしたない」「女は避妊のことなんて考えなくていい」などと、いつまでも考えていたりするものだ。つまり、男はどこまでも、性の主導権を持ちたがり、女性が性に積極的になったりすることを避けたいのだ。  斉藤美和子の『歌謡美の女』(メトロトロン)の裏ジャケットに、コンドームをかぶせた中指を立てている本人の写真が出ている。先日、彼女に聞いたところによると、女性は、コンドームに対して「愛らしい」「いとおしい」「かわいい」といった感情を持っていたりもするそうで、あの写真のように、愛でてあげたくなったりもするのだという。男にとっては面倒なことを避けるための道具でしかなかったりもするが、女性にとっては、自分の体を守ってくれる大事なパートナーみたいなものらしい。  なお、このアルバムに収録された「エイズの人よ」は大変いい出来である。これがヒットしたあかつきには、斉藤美和子の着物の帯をほどいて、彼女がクルクル舞うという大人の遊びをさせてくれることになっているので、皆さんもヒットにご協力していただきたい。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:コンドームについては、この原稿の前に、「週刊SPA!」で特集を組んだ。また、その後、「宝島30」でもコンドームの歴史や業界事情などを書き、この連載でももう一回取り上げている。当時はブームと言えるほどコンドームが注目を浴び、そのためにコンドーム全体の売上げは相当伸びていたが、もともとコンドーム使用率が高い日本では、消費量が一挙に拡大するはずがなく、あの当時増加した売上げは先々の使用を先取りしたものでしかない。現在、コンドームのマーケットがどのようになっているかを付け加えたかったのだが、今回は時間がないので、そのままにしておくとする。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:知人のFが「オレはコンドームを持っている女はイヤだ」と言い出した。その場にいた男の多数派もそうだった。流行りであるかのようにコンドーム専門店に行ってコンドームを買い、それをバッグの中に入れて「ちょっとススんだ女」を気取ってみせるような女はどうかと思うし、皆さんの意見としては、そんなものは家に置いておけばよく、あるいはラブホテルにだって備えてあるのだから、わざわざコンドームを持つということは、トイレやら車やらでセックスする可能性を前提としていることとなり、そういう女はどんなもんかということなのだ。通常はそういった機会など滅多にあるわけでなく、あったとしてもコンドームがなければやらなければいいだけのこと、既に関係のある相手ならば家まで我慢すればいいだけのことというわけだ。しかし、私はトイレや車の中でやったっていいと思うし、現実にそうするかどうかでなく、自らの姿勢を確認する意味の象徴としてコンドームを持ってもいいとは思う。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:「エイズの人よ」はヒットしなかったので、大人の遊びはまだやっていない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 5 泌尿器だけが知るオナニーのあれやこれ[#「5 泌尿器だけが知るオナニーのあれやこれ」はゴシック体] 『消えるヒッチハイカー』(新宿書房)など、都市伝説研究で知られる民俗学者ジョン・ハロルド・ブルンヴァンに、是非教えたい話がある。  私が高校の時、このような噂がまことしやかに語られていた。 「K女子高校の便所で、女子生徒が電球を使ったオナニーをしている途中で電球が割れ、救急車で病院に運ばれた」  そして出血多量で死んだとの一文がこのあとについていたような記憶もあるが、この部分は私がより刺激的な結末にするためにこしらえたもののような気もする。当時から、一のことを百にして語る高校生であった。  このままではないにしても、これに近いことは現実にあったのではないかとも高校生の私は思っていた。学校名まで入っているところがリアルではないか。しかも、その学校はお嬢さん学校であり、いかにものヤンキー女子高ではないところがそそる。そそるから本当ということにはならんのだが、どこかで本当であって欲しいような気持ちがある。  大学の時、酒の席でこの話をしたら、複数の人間が、それぞれの地元でも同種の噂があったと言い出した。これ以降も何人かに聞いてみたが、二、三割の人がこのような噂を聞いたと証言するではないか。とすると、どうも信憑性は薄いと思われる。  学校の帰りに、辛抱たまらず駅の便所でオナニーしたことがある私だが、学校の便所でオナニーをしたことなどなく、女子高生が学校でオナることなど、エロ本の世界以外であるとは思いにくい。万が一、どうにもならない性欲に襲われて学校の便所でオナニーをした女子高生がいたとして、わざわざ電球を使うだろうか。私の知る限り、若い時分はクリトリスだけを刺激するオナニーが主流である。少数派に属する膣内挿入オナニーを好む娘が学校でオナニーするとしても、一体どこからどうやって電球を手に入れるのか。今時学校の便所に電球を使っていたりはしないし、使っていたところで、マンコヌレヌレにしながら教室から椅子を持って来て、電球をはずしますかね。化学実験室から持って来た試験管を使ってオナニーをしていたことになっている地域もあるが、リップクリームやマジックなど、もっと身近な挿入物がいろいろあるではないか。  仮にそういった事故がごく稀にあったとしても、全国各地で頻繁に起きているはずがない。この話は、きっと便所に電球があった時代から全国各地で脈々と語られ続けている噂なのだと私は結論づけた。蛍光灯でのオナニーはあまりに不自然なので、チンポにも形が近い電球という小道具をそのまま残したというわけだ。  この当時はまだ都市伝説なる言葉も概念も知らなかったが、今になってみると、これはまさしく都市伝説だ。地域的広がり、年代的広がりのいずれをとっても、日本を代表する都市伝説として私は強くブルンヴァンに推奨したい。  二年ほど前のことである。福島の泌尿器科医、入澤俊著『こちら泌尿器科110番』(草思社)を読んでいたら、尿道に異物を入れて取れなくなった患者がけっこう来るという文章にぶつかった。尿道オナニーというヤツだ。八十センチのビニール被膜の電線を入れた高校三年男子、体温計を入れた十九歳女性、パラフィンを入れた二十一歳男性、麦の穂を入れた中学生男子などの例がここには出ている。  また日本医科大附属病院の中神義三泌尿器科部長も『泌尿器科・気になる話』(廣済堂出版)で同様の話を書いているし(もしかすっと、この本の異物挿入に関する表記は『こちら泌尿器科110番』を参考にしているとも思える)、一九六四年刊の高橋鐵著『高橋鐵コレクション』には、膀胱異物のレントゲン写真や取り出された物の写真が出ており、このような例はそれほど珍しくないらしい。それにしても、高橋鐵の本の写真を見ると、チビた鉛筆まである。どうしてこんなもんが入ったんでしょ。マリックさんなんかよりずっとすごい。 (挿絵省略)  尿道にこれほどとんでもないものを入れるのが少なくないのなら、膣に電球を入れる娘がいても全然おかしくないようにも思える。先の話は都市伝説だとしても、膣に電球を入れて病院に運ばれた例が全くないわけじゃないのではないかとも私は思い直した。  そこである泌尿器科を訪ねた。この連載を見たその医師は、「ここに私の名は出さないで欲しい」とおっしゃるので、名前は秘すことにするが、無性に淋しい気持ちを私は禁じ得ない。イヤな医者だぜ、まったく(この連載を見て名前を出さないでくれと言ったことだけがイヤなのでなく、こっちが聞きたいことよりも、自分がやっているラジオ番組の宣伝ばかりしやがり、「宝島」に紹介して欲しいなどとも言い出した)。  その医師によると「膣の中にコンドームや生理用品を入れっぱなしにして、中で腐って、異様な臭いをさせていたりするのはいるし、膣に異物を入れて取れなくなったりする患者はいるが、私のところでは、電球を入れた例はひとつもないねえ。電球が中で粉々に割れたら、下手すると一生使いものにならない。そんな危険なものを使わなくても、入れるものは他にいろいろあるだろ」というのである。もっともだ。尿道の場合は、どうしたって先端が尖った危険なものにならざるを得ないが、膣なら、やっぱり他のものを選ぶだろう。  私の予測は簡単に覆された。これで帰るのはもったいないので、尿道オナニーの話である。異物を挿入して取れなくなったり、異物が尿道の途中で折れたりして運ばれるケースは年にいくつもあるそうだ。  男の場合だと、ニクロム線、マッチ棒、針、女性では、ヘアピン、ろうそくといった例があり、治療のためにカテーテル(尿道に入れる医療用ゴム管)を使用しているうち、それでオナニーを覚える患者もいる。中には、看護婦でも、カテーテル愛用者がいるらしい。考えただけで痛くなってくる。電球を膣に入れるのは危険とはいえ、尿道に異物を入れるよりはマシなんじゃないかとも思えてくる。  患者としては、七対三くらいで女性の方が多く、これは尿道が短いため、男よりも膀胱に異物が落ちやすいということもあろうが、尿道オナニー実践者の数そのものも女性が多いようなのである。 「女性のオナニーは、まずクリトリス周辺をいじるところから始まる。処女だと、膣に入れることによって処女膜が破れることを恐れたりして、その代わりに尿道に何かを入れる。女性の場合は、Gスポットを尿道から刺激することになるから、事実快感があったりするんだと思うね」  なるほど、本当に気持ちいいのか。とすると、例の都市伝説も、尿道にチョークを入れて取れなくなったとした方がまだしもリアリティがあるかもしれん。 「しかし、医者の立場からすると、何を入れるにしても尿道は危険なので、絶対にやめなさい」とのことだ。  尿道から異物を入れて取れなくなったり、異物が膀胱に落ちた場合は、尿道から器具を入れて取り出すのだが、腹部を切開しなければならないこともある。それほど難しい手術じゃないそうだが、尿道オナニーはしない方が身のためだろう。  この取材のあとでバッタリ出食わした漫画家の友沢ミミヨにこの話をしたところ、彼女は私にこう詰め寄った。 「あれえ、松沢さん、どうして今回は尿道オナニーを試さないのぉ。いつもなら何でも自分からやってみるのに」  痛いところを突きやがる。しかし、今回はやらなくてもいいのである。私は十年ちょっと前に、病気で尿道にカテーテルを入れられたことがあり、あの時に尿道への異物挿入体験は済ませているのだ。あんな痛くて気持ちの悪いことは一度で充分。 「それはやむを得ずでしょ。尿道オナニーはそれとは別に試さなくちゃ」  聞く耳持たん。入れる尿道も持たん。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:学校でオナニーしたことのある男や女は決して少なくないことがその後わかってきた。知り合いのミュージシャンS君は休み時間のたびにオナニーしていたことさえあるという。従って、電球が割れたという事故はともかくも、学校のトイレでマンコの中に異物を入れていて取れなくなったといった例なら、あってもおかしくはない。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:この原稿に対して、「電球オナニーは都市伝説ではない。本当に病院に運ばれた女子高生がうちの町にはいた。新聞にも出ていたから間違いない」と主張するのがいた。私は、明治|開闢《かいびやく》以来、電球でオナニーしていて病院に運ばれた女子高生がひとりもいないと言っているのではない。泌尿器科や産婦人科医の学会でも、尿道、膣、肛門への異物挿入で病院に運ばれる患者についての報告は少なくないとの話を知り合いの産婦人科医から聞いた。学会の報告を調べれば、電球オナニーについても出て来る可能性はあると思うが、全国各地で囁かれているほど頻繁に起きているはずがないということである。こういった話のほとんどは根拠のない噂であり、その意味で都市伝説にふさわしいということなのだ。  また、都市伝説では、「友だちが見た」「友だちの友だちが体験した」といったようなもっともらしい根拠が付いているものだが、手繰っていくと何もなくなってしまう。「新聞に出ていた」というのも、誰かが言っていたのを自分が見たかのように記憶を改竄したものに違いない。ちょっと考えてみればわかるが、そういう女子高生がいたとして、一体どうして新聞に出ることがありえよう。学校や病院が警察に知らせるか? 知らせたとして警察がわざわざ発表するか? 発表したとして新聞社が記事にするか? もし新聞記事の現物を持っている人あるいは電球オナニーで病院に運ばれた体験のある人がいたら、是非ともお知らせいただきたい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 6 投稿雑誌こそ愛無き時代の福音書である[#「6 投稿雑誌こそ愛無き時代の福音書である」はゴシック体]  文章を書くのが好きでも、それが仕事になると、だんだんやっつけになってきて、文章に力がなくなる例は少なくない。好きでやっているうちはいいのに、売れてきて仕事になった途端にありふれたものを作るようになるミュージシャンも多い。絵も漫画も映画も何もかもがそうだ。これはセックスも同じ、AVギャルでも風俗の子でも、セックスへの欲望が薄らぐという話はよく聞く。  そしてエロ本もまたそうなのである。最初は趣味と実益が一致して生き生きと仕事をやっているのに、毎日女の裸ばかりを見ていると耐性ができてきて、どうしても、いやらしいという気持ちが薄れてくる。こうしておざなりのエロばかりになってくる。  ところが投稿写真誌のエロは不滅だ。実質的に作っているのは素人の読者であり、読者は次々と湧いてくるのだから、枯渇しようがない。 「宝島」でも以前取り上げられていたが、投稿写真雑誌は本当にいやらしい。ありきたりのエロ本やエロビデオではなかなか興奮できなくなってしまっている私でも、投稿誌は五ページに一回勃起する。「投稿」という文字を見ただけで勃起しそうにさえなる。  それにしても、どうしてこういった雑誌が成立するのだろう。一体どういう人たちがどういう気持ちで投稿しているのか。顔がバレてトラブったりしていないのか。写真に添えられた文章は本当なのか。私は勃起しながら、いつもこのような疑問にとらわれる。  そこで三大投稿写真誌のひとつであり、私の愛読誌でもある「ニャン2倶楽部」(通常はニャン・ツー・クラブと読む)の編集部を訪問した。相手をしてくれたのは太田章編集長と元ツァイトリッヒ・ベルゲルターの前田亮一編集員である(ツァイトリッヒ・ベルゲルターというのは、メタル・パーカッションを主体としたバンド。映画「鉄男」の音楽を担当した現・アイゼンロストの石川忠もこのバンド出身)。  まずは投稿者の傾向を聞いてみた。 「以前、こういった雑誌に投稿するのは、SMマニアだったりしたんですが、今は誰でもカメラを持っているし、ラブホテルに使い捨てのカメラの自販機があったりしますからね。デートの時に遊園地で記念写真を撮るような感覚でニャンニャン写真を撮る時代ですよ。だから年齢やら職業やらの傾向はつかみようがない。カメラを持っている人は皆こういう写真を撮っていると思って下さい」  そんなことをしているのは、元「宝島」編集者の町山だけかと思っていたが、皆そげなことしてるですか。オレもしたことあるけど。  恐らくこのようなエロ投稿雑誌のルーツは、「奇譚クラブ」「風俗奇譚」といった昭和二十年代から三十年代に創刊されたSM雑誌にあるのだろう。この当時は写真でなく文字による投稿だったが、変態雑誌の分化がなされていなかったため、SMのみならず、同性愛、女装、スカトロといった変態さんらが、一通り投稿していた。その内容は、あくまで日陰者の苦悩や喜びといったところがあり、今のような明るさや無邪気さはない。このような雑誌を読んでいる人もまた同様の趣味を持っていて、読者がいつでも投稿者に転ずる。そして、これは今でも同じだ。  現在、エロ系写真投稿誌のマーケットは百万部以上と言われていて、その読者がそのまま投稿者になり得る、と太田氏。 「女の子の意識が変わったのが大きいと思いますね。写真の投稿は、相手の承諾があることが大前提です。送られてくる写真の中には、女の子が男を撮っていたりするものもある。読者が男なので掲載はしませんが、互いに撮りっこして遊んでるんですね」  セックスが解放された現代において、ここまでは理解しないでもないが、ただふざけながら写真を撮ったものを投稿するには、さらに壁があるはずだ。「ニャン2倶楽部」には、毎月二百五十人くらいの投稿者から、数千枚の写真が送られてくるというのはどういうことか(このうち掲載されるのは四十人から五十人)。雑誌にケツを晒して恥ずかしくないのか。オレも何回か前に晒したけど。 「それぞれ憧れの状況というのがあるわけですよ。写真に撮っているのは、毎日セックスしている妻や恋人だったりするんだけど、すました美人秘書を愛人にしている、友人の妻を奴隷にしているといった物語を書いてきたりする。それを編集部がうまくまとめたり、膨らませてあげることで、夢が誌面で実現する」  なるほど、そういうことか。ここには一杯夢がつまっているのだ。第三者の手が加わり、メディアというフィルターを通すことによって、夢がリアリティを持ち、慣れ切った女の裸が再びいやらしさを取り戻す。これは我々もよく体験することだ。すごくつまらないコンサートだったのに、ビデオの形になると、やけに感動的なものになったりする。あるいは、裸の女を目の前にしてもいやらしくないのに、ビデオを通して画面で見るといやらしかったりもする。投稿誌はメディアが持つ機能や性の幻想の特性をフルに生かしている。  また、皆が積極的に写真を送るのは、モロ写真をその辺のラボに出すわけにはいかないという理由もある。小さな町ではすぐに噂になってしまう。そこで、未現像のフィルムを編集部に送る。普通のラボじゃ焼いてくれないようなものでもプリントになって戻ってくるので、掲載されなくても楽しみはある。編集部が現像所代わりになっているのだ。 「経費の八割は現像代ですよ(笑)」  写真を撮る段階で興奮の一があり、誌面を見て興奮の二があり、プリントされて送り返された写真を見て興奮の三があるわけだ。一発で三度おいしい。  しかも謝礼まで出る。複数の写真誌を見るとわかるが、同じ時に撮ったと思われる写真を何誌にも投稿しているのが少なくない。一誌五千円程度らしいが、扱いが大きければ万単位の謝礼が出ることもあるし、これが三誌、四誌となれば、ちょっとしたアルバイトになるって寸法だ。パンチラ系の投稿者には、これで食っているセミプロまでいる。  セックスに倦怠したカップルが、新たな刺激として写真を撮る。これを現像してもらうために編集部に送る。そしたら、掲載されてしまい、また興奮する。今度はもっと刺激的な妄想を現実にしようと、屋外で露出プレイをして写真を撮る。これがよくて病みつきになる。このように、日常を投稿するだけでなく、投稿によって日常が引っ張られるケースもありそうだ。 「あるでしょうね。送ってくるのは常連さんが多いんだけど、こちらとしては新人を積極的に載せるので、どうしても常連さんは、同じような写真だとボツになってしまう。そこで、どんどんエスカレートしていく。こちらとしては、そういう過程を見ているのが面白いところもある。ただ、もともとそういう嗜好がないと続かないでしょうけど」  つまり潜在していた能力が投稿によって開発されるのだ。セックスにおける自己開発セミナーのような役割を果している雑誌でもある。  掲載時には、ほとんどの写真に目隠しをしてあり、これがこちらの妄想を刺激するわけだが、何号も続けて見ていると、「おっ、この女、前も出ていたな」とか「この夫婦、最近はエスカレートしているな」と、写真を見て、すっかり馴染みになっている女性がいる。ましてや知り合いなら、どこの誰かわかってしまうだろう。SM誌のように、非常に限られた読者しか見ないものならともかくも、部数も多く、雑誌によってはコンビニでだって手に入る。隣近所や職場でバレることだってありそうだ。 「ありますよ。子供と自分を捨てて逃げた妻じゃないかというので、北海道から確認しにきた人もいます」 「ニャン2倶楽部」はプライバシー保護に相当気を遣っていて、私にさえ生写真を見せてくれないのだが、この時は事情が事情だったので、身分を確認した上で見せたところ、やはり逃げた妻だったのだそうだ。ドラマである。 「こんな話もある。寿司屋さんをやっている夫婦なんですけど、客から�奥さん、この前見ましたよ�と言われたそうです(笑)。もしかするとバレているかもしれない、隣近所の人たちは皆知っているかもしれないという綱渡りみたいな楽しみ方をしているカップルもいるんですね」  バレるかもしれないことまでがプレイなのだ。なにしろ、目隠しをしないでいいという人までいる。「こんなはしたないことをしている私たち」を晒すことで、いよいよ夫婦間の関係が深まる。してはいけないことをする方が人間、興奮するものだ。  中には、キャプション通りに、テレクラやダイヤルQ2でナンパした相手を撮っているのもいて(しばしばギャラを払っていたりもするらしい)、こういったナンパ系は別としても、夫婦や恋人の間でこういった写真を撮り、それを投稿できるのは、両者の間に愛と信頼がある証拠だ。トレンディ・ドラマの数倍もの愛に満ちた雑誌と言えよう。  その意味では好きな相手のためにイレズミをしたり、ピアスをしたりすることにも似ている。「あなたのためならここまで晒せる」という証明なのだし、そこまで晒す相手にいよいよ興奮する。これはスワッピングにも似ているところがある。スワッピングすることで嫉妬心をかきたてられ、相手を愛する自分を確認する。絆が薄いカップルがスワッピングすると、結果、他の異性の方がいいことを確認してしまい、破局を迎えたりする。かつてはセックスをしただけで愛を確かめられたりもしたが、これほど簡単にセックスができ、貞操観念が揺らぐ時代に愛を確認することは難しい。 「肉体ではなく前頭葉でエッチするということが広がってきたということじゃないですか。エロ本の流れには、一方にきれいきれいなエッチ・アイドル系のものがあり、一方に生々しいものにこそ興奮する雑誌がある。うちは典型的に後者ですね。うちは生活雑誌ですよ(笑)。読者としても、両方OKは少ないんじゃないですかね」  そうかもしれない。ちなみに私はエッチ・アイドル系の雑誌には全然興味がない。  編集者の机の上にあった写真をチラリと覗き見したところ、きれいなおねえちゃんがチンポをくわえたり、マンコを広げたりしていた。いいなあ、毎日こんなの見られて。この編集部には職業病はないのだろうか。 「どこまで行っても海綿体を充血させるものが送られてくるんですよ。編集者が考える企画には限界があって、そういったものよりも現実の方がずっと上をいきますね」  何がすごいって、女性自身から写真が送られてくることさえあることだ。目隠しのない写真が何点も掲載され、しかも毎朝乗っている電車の車両まで書いてあり、「痴漢して欲しい」という手紙つきで、大阪の女性からの投稿が載っていた時は驚いた。さすがに、「ホンマかいな、編集部のツクリじゃないんか」と思ったが、本当に送られてきたものだという。 「連絡先が書いてないから、確認できないんだけど、今まで何度も送ってきているから、イタズラとは思いにくい」  その投稿に対しては、読者からも「あれは本当か」という電話があったそうだ。「今度大阪に出張に行くから、確認してくる」というので、「痴漢して捕まっても責任は持ちませんよ」と太田氏は念を押した。それからしばらくして「本当に例の電車に乗ってました」との報告があった。 「でも、もう先に痴漢されていたため、その人はしなかったそうです(笑)」  この雑誌には恐るべき素人の性が凝縮されているのだ。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:「ニャン2倶楽部」は投稿者を一切紹介してくれない。プライバシー秘匿が絶対条件だからだ。しかし、その後、別の雑誌の取材で、投稿マニアに会うことができた。まだ二十代半ばの青年である。彼は読者欄を通じて、マニアと写真交換をしたり、マニア夫婦に呼ばれて3Pをしたこともあるのだが、彼が撮る写真はさほど過激でもなく、せいぜい屋外での露出写真程度だ。もともと写真を撮るのが好きで、自然と彼女を撮るようになったそうで、彼の場合、被写体はいつもその時に付き合っている女性である。 「ナンパした女の子じゃ普通は撮らせてくれないし、愛情のない相手を撮っても面白くないですよ。だんだん信頼関係が深まってきて、そこで写真を撮るのが楽しい。でも、最近はちょっと飽きてきましたけどね」とのことだ。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:投稿写真には、ハミ毛というジャンルがある。海水浴場やプールでの水着姿の女性たち、ミスコンに出ているレオタード姿の女の子などなど股間からハミ出している毛を撮ったもので、私もこれは好きである。これだけを専門に撮っているわけではないが、こういった写真をよく撮っている投稿者にも会った。スポーツもの、レースクイーン、ミスコンなどをおっかけているカメラマンたちにとって、ハミ出た毛は余禄のようなもので、毛が出ているのを見つけると、カメラマンたちの間で「おお、毛だ、毛だ」とざわついたりするという。気持ちはすごくよくわかる。こういったカメラマンは、ニャンニャン系の投稿者とはまったくタイプが別で、どちらかといえば、アイドルのおっかけカメラ小僧に近い。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:その「ニャン2」編集部から電話があって「名古屋の人妻をマワすんだけど、参加しませんか」との誘いがあった。編集部で強姦の斡旋をしているわけでない。これもマニア夫婦のプレイである。自分の妻を貸し出ししているマニアがいて、他の相手としているところを逐一テープに録って、それをダンナが聞いて興奮するのである。ところが、相手が一人じゃ物足りなくなり、そこで編集部でマワしてくれないかとの要望があったのだそうだ。奥さんは一人で東京にやってきて、バスを連ねて十人以上で一泊旅行へ行き、皆でマワすのである。これは面白そうだと思ったが、ちょうどその日は別の取材で地方に行くことになっている。こんな機会は滅多にあるもんじゃないので、予定を変更しようかとも思った。念のために、バックナンバーを探した。どんな女性か見て決めよう。すぐにその人はわかった。私は参加するのをやめた(このツアーの様子も誌面で報告されていた。参加者は十人には満たなかったが、そのうち三人だか四人だかはしっかりハメたそうである。奥さんもダンナも幸せであったろう)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 7 ナニワのヘルス嬢、AV出たさに上京す[#「7 ナニワのヘルス嬢、AV出たさに上京す」はゴシック体]  一月末、関西の知人Fより電話があった。 「AVに出たがっている子がいるんだけど、なんとかなりませんかね」  彼女は現役のヘルス嬢で、A子という。チンポしゃぶって稼ぎまくっているから金には困っておらず、いまさらビデオで金儲けしようというのではない。かといって、ビデオをきっかけにタレントになりたいというような腑抜けたことでもない。とにかく一度出てみたいとの純粋な好奇心によるもので、そのためには本番も辞さないと言っているのだそうだ。  メーカーやプロダクションにいくらかのコネクションはあるから、紹介することは簡単だが、それなりのルックスをしていないと誰も使ってくれない。もともとA子はFの知り合いの知り合いで、F自身もあまりよくはA子のことを知らないのだが、ヘルス嬢としては人気があり、ルックスもいいとのことである。ヘルス嬢としては人気があって、ヘルス嬢としてルックスがよくても、ビデオとなると話は別だ。  私はFに写真を送ってくれと頼んだ。  数日後、Fが喫茶店で撮った数葉の写真が送られてきた。人気があるのはわかるが、やたらとAVギャルのレベルが高くなってしまった昨今、彼女程度では、雑誌グラビアに起用されるような人気AVギャルになることは難しいだろう。下手をすれば、ちょっと出のタレントよりもルックスのいいAVギャルが少なくない時代である。ウンコ食うのも辞さない、電車の中でチンポしゃぶるのも辞さないというのならともかくも、本番を辞さないくらいでは売りにならない。しかし、水商売っぽい服や化粧を変えれば、相当印象は変わろうから、なんとかなりそうなA子の顔立ちでもあるし、写真を見ただけではわからない魅力があるのかもしれない。  私はFに写真の感想を述べ、「ビデオに出ることはできても、決してアイドル路線の出方でなく、AVギャルとして人気沸騰ということにはなりそうにない。それでもいいのか確認して欲しい」と伝えた。なんのかんの言いながら、どこかで、そのような期待も抱いているのではないかとも私は想像していた。  間もなくFから返事があり、A子は「最初から人気云々を考えているわけでなく、今すぐにでも、とにかくビデオに出たいだけだ」と言っているとのことだ。どこかプロダクションに属し、今後、継続的に出たいということでもなく、とりあえずは一回出れば気が済むらしい。  何をそんなに焦っているのかわからず、本当に、単なる好奇心だけでビデオに出られるものだろうかとの疑いは変わらずあるが、そういうことなら制作サイドに話すのが一番早いだろうと、私は伊勢鱗太郎監督に頼むことにした。  写真を見た伊勢さんは、やはり「単独で一本撮るのはつらいので、企画ものでいきましょう」と言う。企画ものとは、女の子自体で売るのではなく、テーマの面白さで売るようなタイプのものである。最近ではナンパものがちょっとしたヒットになっている。  それにしても一度面接しておかなければならない。キャラクターはどうか、スタイルはどうか、喋りはどうかなどといった本人の魅力を探り出すこともさることながら、本人の意志を確認する必要がある。いざ撮影の日にすっぽかす、撮影の途中でゴネるということがあるとまずい。それに、年齢の問題もある。この業界では、十八歳未満を使ったことで捕まったケースが何度もあって、年齢チェックは厳しく、面接にはパスポートか免許証が必要だ。住民票や保険証だと他人のものを借りられてしまい、学生証だと写真を張り替えられる。事実そういう例はあって、そこまでやったなら、詐称した本人のみが責任を負うべきだが、虎々眈々と摘発するのを狙っているとしか思えない警察が、そんな筋の通ったことをしてくれるはずがなく、メーカーやプロダクションもろともにパクられることになる。だから、偽造しにくい、パスポートか免許証じゃないといけないのだ。  どちらも持っていないA子は、仕方なくパスポートを取ることとなり、その準備ができる二月半ばの木曜に上京、面接することになった。  私はA子の撮影の日まで、逐一立ち会うことに決めた。冥土の土産に一度撮影現場を見物したいとの思いもあったし、今回の経緯を原稿にしようとの下心もある。AVギャルに取材することは簡単だが、AVギャルになっていく過程をリアルタイムに眺められる機会はそうあるものじゃない。面接やAV出演の風景をすべて取材し、また、ここに至る彼女の人生を徹底的に掘り下げて、この連載で少なくとも二回にわたって紹介しようと考え、A子にも伊勢さんにも承諾してもらった。  AVに出ることで、彼女の人生が何か変わるかもしれない。彼女は純粋な好奇心というが、それ以上に何か期待もあるはずだ。その期待が叶えられ、あるいは裏切られることによって、彼女は一体どう変わるのだろう。ことによると、この取材は二回程度じゃ終わらないかもしれないとも感じていた。  さて、面接の当日。三時に新宿駅で待合せていたが、昼頃、F氏から電話があった。 「実は彼女がつかまらなくなってしまったんですよ」  FはA子に付き添って東京に来ることになっていたのだが、A子がいなくなってしまったというのだ。A子はこの間の日曜から店を休んでいて、以来プッツリと連絡が途絶えていた。A子は自宅に電話がなく、連絡はA子のポケットベルに入れておくのだが、何度入れておいても電話がかかってこない。FはA子の自宅を知らないので、ただ待つしかない。既に面接の日や時間だけは決めてあったので、すっぽかすことはないだろうとFは悠長に構えていたのだが、今日になっても電話一本ないという。どっちみち、今日はもうダメだろうと面接は中止することにした。  あれから十日以上になるが、相変わらずA子はつかまっていない。いつもFを通して連絡を取り合っていたので、直接A子と話すことは一度もなかったが、たぶん以下のようなことだったのではないかと想像する。  A子はたいした理由もなく、どこか別のところに行きたくなった。ビデオに出たいと考えたのは、今とは違う場所に行く行為のひとつとしてである。しかしビデオに出ることは、彼女が考えているほど簡単なことではなく、当然の手続きがあれこれある。彼女は、それに嫌気が差し始め、ビデオ出演が実現する前に、どこかに行ってしまいたい欲求に耐えられなくなってしまった。こうやって彼女は、これまでもあちこちの町を移り住んできた(Fによれば、彼女はいくつかの町を転々としているそうである)。そして今頃は、またどこかでチンポをくわえ始めているに違いない。  撮影をすっぽかしたわけじゃないから、実害はなかったし、彼女の気持ちもわからないではないが、何人もの人を煩わせておいて、こりゃひどい。  A子よ、もしこれを見たら連絡を寄こしたまえ。今回の責任をとるためにチンポをしゃぶってくれなどとは言わない。ただ、君の心のうちを徹底的に聞いて、宙に浮いたもう一回分の原稿のネタにさせてもらおうとの魂胆である。  また、最近どこかでA子にチンポをしゃぶられた人も連絡していただきたい。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:この記事が出て一カ月以上経ってから、A子に関する情報が飛び込んできた。「今でもうちで働いている」とヘルスの社長からの電話があったのだ。そして社長は「一体どうしてくれるんだ」などという。この電話、抗議の電話だったのである。  この回は、Fから送られてきた写真を掲載していた。当初は目隠しをする予定だったが、A子を探すこと自体をこの連載で展開していこうとも考えていて、そのためには目隠ししない方がいい。顔を出しておけば、彼女を見かけた人から連絡があるだろうし、彼女に記事が出ていたことを伝えてくれるかもしれない。雑誌で彼女に制裁を加えようといった意図などなく、本気で私はA子あるいはA子を知っている人からの連絡を待つつもりだったのだ。念のためにFにも相談したところ、もともとヘルス嬢として雑誌に出たことがあり、ビデオにだって出ようという人間だから、顔を出されることに抵抗はないはずで、なにより、今回のことは彼女に全責任があるのだから、そんなことで文句を言うまいとのこととなって、目隠しをしないことになった。といった事情はあったにせよ、本人に無断で写真を掲載したことには違いなく、このことを突っ込まれるとこちらとしても弱い。  社長は怒り狂った口調で、「うちの子をよくも傷つけてくれたな」といったことを言う。「確かに写真を出したのは申し訳なかったが、迷惑を被ったのはこちらであり、まず謝罪するのはそっちではないか」と反論したが、どうやら社長は今回のビデオの件をよく理解していないようである。そこで私は一から事情を話し、Fの知人、F、私、伊勢監督は彼女の期待に応えるべく手筈を整え、Fに至っては一緒に東京に来る準備をし、私や伊勢監督は時間を空けて彼女が来るのを待っていたのに、一切の連絡をせずにすっぽかしたのは許されることではなく、ページを空けていた私としては、あのような記事を書かざるを得なかった旨を説明した。そして、こちらとしては、彼女を探し出して、彼女がまだビデオに出る気があるのなら、改めて相談に乗る準備があり、ないならないで事情を聞きたく思って、あえて目隠しをしなかったといった話をした。  ここで社長の怒りはちょっと鎮まり、すっぽかしたことについては謝罪をしてくれた。話の通じない人間ではない。しかし、「今もA子は泣いているんだよ。どうしてくれるんだ」と相変わらず言う。ここで初めてわかったのだが、A子が泣いているのは、写真を勝手に出された上で、すっぽかしたことを公にされたためでは全然なかったのである。彼女の写真を見た私の感想を読んで傷ついたというのだ。またこれを読んで泣かれると困るので、単行本掲載に当たって該当箇所の表現を和らげ、一部削除しておいたが(このほかにも彼女がどこの誰かがわかるような情報は削除している)、原文では、実際の年齢よりもずっと上に見えることを指摘していて、確かにうら若き女性が読めば傷つくかもしれない内容ではあった。しかし、これは写真を見た私の正直な感想であり、クレームをつけられる筋合いはなく、老けて見られるのがイヤなら、もっと若々しい化粧と服装をするよう心掛ければいいだけのことである。正直私は拍子抜けした。  本来は、ビデオ出演に関してタッチしていなかった社長が私に謝罪するような義理ではなく、にもかかわらず謝ってくれていることだし、社長としての立場上抗議しないわけにはいかなかった事情を理解するので、A子に対してというより、社長に対して誌面で謝罪を出すことを約束し、事実、この二号あとで謝罪文を出した。  この一回の電話で私に対する抗議は終わった(Fに対しては、これとは別にあったようである)。謝罪の内容は、決してこちらの非を全面的に認めるようなものでもなかったのだが、あれで納得してくれたのだろう。結局、A子とは直接話せなかったので、なぜすっぽかしたのか、何を求めてビデオに出ようとしたのかについては、未だにわからないままだ。もしA子がこれを見るようなことがあったなら、手紙でよいので、是非ともなぜすっぽかしたのかを教えていただきたい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 8 日本の奇祭・へのこ祭りに性神を見た![#「8 日本の奇祭・へのこ祭りに性神を見た!」はゴシック体]  愛知県小牧市の田県神社は、『延喜式』(九二七年)にも記載されているほど由緒正しい歴史を持つチンポ神社である。性神を崇拝する風習は全国各地に残っており、これ自体はそう珍しくもないが、田県神社は、二メートル以上ある男根を積んだ御輿が町を練り歩く豊年まつり(通称へのこ祭り)なる奇祭によって、世界のチンポ・ファンにその名を知られている。  田県神社には、これまでに三度ほど行っているが、毎年三月十五日に行なわれている豊年まつりは未体験である。豊年祭を見ずして田県神社を、そしてチンポを語るわけにはいくまいと、他の仕事で名古屋に行ったついでに豊年まつり見物を実現することにした。  名古屋駅から名鉄小牧線に乗る。車内に豊年まつりの中吊り広告が出ている。チンポ・ファンならずとも、この付近の人で田県神社および豊年まつりのことを知らない人はいない。  チンポ行列は午後二時からなのだが、あいにくの雨にもかかわらず午前中から多くの人が詰めかけている。外人サンがやたらと目につき、神社側が彼らの案内役として、白人の巫女《みこ》さんを何人も雇っているほどだ。以前小牧には米軍基地があり、米兵が豊年祭を見て噂が噂を呼び、小牧から米軍が撤退したあとも、全国の基地からバスを連ねて来ているのである。そして彼らがまた世界各地の基地に散り、「日本に行ったらチンポ祭に行け!」が世界の米兵の合言葉となっている。一部私の推測が混じっているが、それくらい外人サンが多く、これほどの外人サンを私が見たのは、札幌オリンピック以来ではないか(少し大袈裟)。  また、人類学者などの研究者がこの中には混じっていたりする可能性もある。戦前までの田県神社は、氏子や好事家のほか、子宝に恵まれず、藁をも掴む思いでやってきた夫婦などが集まる程度のこぢんまりした佇まいであったという。ところが、戦後、海外からの観光客や軍人らの口を通して噂が広まり、アメリカの雑誌でも紹介され、以来、研究者が続々やってくるようにもなった。昭和二十年代末くらいから、日本国内でも、本や雑誌に紹介される機会が増え、さらに新幹線が通るようになってからは国鉄が観光財源として注目し、積極的な宣伝を始める。こうして田県神社は日本で最も有名な性神の神社となった。  田県神社の社には大小様々なチンポが祀られており、お守りや破魔矢、絵馬もチンポだし、土産はチンポ飴やチンポ饅頭で、トイレに行ってもチンポだ(これは自前のチンポ)。チンポ三昧、チンポづくしなのである。  ある白人女性は奉納されたチンポの山を見て「オー、グレート!」と感嘆の声を上げ、別の女性は土産用のチンポ飴を握り始めて「ナーイス」と呟いていた(いずれも誇張なしの実話である)。  一緒に行ったカメラマンは「女性器の饅頭はないんですか」と土産屋のオバサンに聞いた。オバサンは照れもせずに「あれは型を取るのが難しいからねえ」と答えた。レストランに入ったら、おばちゃんたちが「チンチンはええがね」などと語り合っていた。  この地では、チンポやマンコの話を堂々とできないような者は神に背く不届者である。外人サンたちもやたら楽しそうで、私は生まれ故郷に戻ってきたような感慨を抱いた。  御輿が出るまでにはまだ時間があったので、田県神社に隣接した秘宝館(正式な名称は自然生態博物館)に入った。よくある類のもので、クジラなど様々な動物の性器の現物や写真が展示してあり、どういうものだかバイブレーターも置いてある。この辺の俗さ加減が魅力ではある。  そして午後二時、田県神社から十分ほどのところにある熊野神社から行列は出発。怒張して血管を浮かせたチンポを描いた幟がはためき、六十センチほどのチンポを抱えた巫女さん集団が歩く。学生のアルバイトか何かだろうが、ちょっと照れた様がまたかわいい。こうしてチンポ気分はいやでも盛り上がる。  そして遂に姿を現した本体を見て私は胸を熱くした。でかくて立派だ。チンポの御輿を十二人の厄男が背負っている。チンポ本体だけで二百八十キロもあるとあって、ゆっくり休み休み進む。バカも休み休みである。やがてお神酒が回ってきてか、男たちは興奮の頂点に達し、通行止めとなっている国道の真ん中でクルクル御輿を回転させる。跳ね飛ばされて血まみれになる厄男もいる。これが祭のクライマックスだ。私は本当に感動した。たかがチンポに命がけなのである。  負けてはいられない。私は対抗上、自らのチンポを出してしまおうかとも思ったが、本物のチンポが歓迎されるかどうかは見極められなかったのでやめた。  こうして一時間半もの時間をかけて行列は田県神社に着き、今年も無事御輿は奉納された。あの巨大男根は毎年檜で作られ、祭が終わると希望者に払い下げられる。会社のお守りとして買う例が多いらしいが、田県神社にあるからいいようなもので、会社の受け付けや社長室には似合わないようにも思う。いくらくらいするものなのかは聞きそびれたが、あれほどの大きさだから、原木だけでも五万十万では買えまいし、彫る作業だって一日二日では済むまい。これに奉納金が加わるのだから、百の大台に乗るんじゃないか。私も金と置く場所が確保できれば、いつかは一本欲しい。個人宅じゃいよいよ似合わないけども、人生の目標のひとつに加えるとしよう。  祭が日曜だった昨年は六万もの人が押し寄せたが、今年は平日で、しかも雨のため、人出はその十分の一程度だったようだ。しかし、おかげでたっぷりと男根を拝むことができ、この御利益によって、私のチンマン研究の道は当面安泰であろう。  このような性神崇拝は奇異にも見え、ましてや海外の人たちにとってはそうなのだろうが、かつてはどこにでもあった、至って自然な信仰だ。妊娠の仕組みなど想像もできなかった時代に、チンポをマンコに差し込むことで子供が生まれるのは驚異的な現象であった。自分の思い通りに動かないことも不思議さを増す。ここからチンポに神が宿っていると考えるようになる。こうして、安産、繁栄、豊作の神としてチンポを崇拝するようになったというわけだ。  男根崇拝はフェミニストから批判を浴びたりもしそうだが、日本の場合、夫婦岩のような男女ペアのものが多く、女性器単体の崇拝物もある。田県神社のすぐ近くにもマンコを祀った大県《おおあがた》神社があり(こちらは隣接した犬山市になる)、大県神社の通称おそそ祭りでは、大蛤《おおはまぐり》御輿の行列が出て、大蛤の中から福娘が出てきて餅をまく。田県神社との縁は深く、もともと田県神社は大県神社の末社であったとも言われ、以前は田県神社と同じ日の午前中に蛤行列が出たのだが、数年前から三月十四日に変更になっていて、それを知らなかった私は見逃してしまった。来年はデカマンを見ることにしよう。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:この夜、地元のテレビ局で豊年まつりのニュースが流されていたのだが、一度も男根のアップが映し出されなかった。雪祭りのニュースで雪像を映さず、岸和田のだんじり祭りでだんじりを映さず、仙台の七夕祭りで吹流しを映さないようなものではないか。映したら映したでクレームをつける馬鹿者がいたりするんだろう。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:たかがチンポに命懸けの男たちの姿に感動した私は、その後、チンポ研究に力を注いでいる。マンコの研究は盛んだが、チンポは誰もまともに扱おうとしない。私とて本音を言えばチンポよりマンコを扱いたいのだが、人が見向きもしないものにこそ魅力を感じてしまう私には、チンポの方が似つかわしい。この成果は雑誌「アサヤン」の連載「オチンチンの肖像」で結実した。しかし、「アサヤン」の読者は中高生の女の子が中心であり、開始早々の読者投票で、二位を大きく離してのワースト一位に選ばれた。こういう評価にエキサイトする私は、とことんチンポのディープな実像に迫ったのだが、十分に書き切れないまま、数多くのテーマを残して一年で連載打ち切りとなった。私としては稀に見るいい原稿だと自負しているのだが、やっぱりチンポは報われぬ。これ以来、中高生のガキどもが嫌いになった。  また、性器崇拝については、「SPA!」の連載「松沢堂の冒険」でも何週かにわたって取り上げていて、いずれまたやることにもなろうかと思う。こちらは読者からの反響がいくつもあって、同じ原稿を書くのでも、読者を選ばねばならないことを学んだ。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:大県神社のおそそ祭りはまだ行っていないが、そのうち必ず行く。 文庫版追記一[#「文庫版追記一」はゴシック体]:名古屋のテレビ関係者によると、今はテレビでも堂々映し出されるそうだ。 文庫版追記二[#「文庫版追記二」はゴシック体]:自然生態博物館は閉館となった。 文庫版追記三[#「文庫版追記三」はゴシック体]:「オチンチンの肖像」は『魔羅の肖像』(翔泳社刊、のち新潮OH!文庫所収)として単行本になった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 9 「裸の触れ合い」ついにスタート[#「9 「裸の触れ合い」ついにスタート」はゴシック体]  欲情するのが難しい時代だ。私も生身の女じゃなかなか欲情しなくなっている。歳のせいももちろんあるんだろうが、セックスが晒されすぎて、妄想の余地がなくなっているのだとも思われる。  しかし、先日、とてつもない欲情の道筋を体験したので、報告しておこう。  ある日、見知らぬ女性から、「一緒に風呂に入りませんか」との電話があった。時々いる、いかれぽんちの読者かと思ったが、彼女は筑波大学に通う安藤|紫《ゆかり》さんといい、「おふろプロジェクト」なるものを実施している女性であった。要するに芸術のようなものである。本人は芸術という言い方を好まないようだが、人とやたらに風呂に入るのは、ソープ以外では芸術くらいしかなかろう。  これまでいくつかの芸術活動に関わってきた安藤さんは、「芸術とは一体何か」を模索した結果、壁の絵を眺めるよりも、人との触れ合いの方が、より「芸術的」で有り得るのではないかとの思いに至る。それに意識的に取り組み、芸術の意味や人との関わりを見極めるための実験がこのプロジェクトであり、このこと自体が彼女の表現なのだ。男女を問わず二人で風呂に入り、その会話をテープに録音、いずれはこれを何らかの形でまとめる予定である。  そういえば、今はなき「WET」編集長のレナード・コーレンもバス・アートをやっていたし、裸で一緒に風呂に入る精神療法なんてえのもアメリカにはあったと思う。芸術したり、精神療法したり、若い娘さんの裸まで見られたり、しかも体まできれいになるのだから、一石四鳥である。私は即芸術することに賛同した。  仲間うちのアーティストを中心に、既に十人以上の相手と風呂に入っている安藤さんだが、もともと「シティロード」などの原稿を読んでくれていた彼女は、私を初の面識のない相手として選んでくれた。 「どうせなら、風呂で出会いませんか」と私は提案、彼女も同意した。これは楽しい体験になりそうだ。  電話を切ったあと、ふと不安になった。勃起したらどうしよう。すっかりその気になっている女が裸になっているのに勃起しないのは体裁が悪いが、芸術で勃起するとこれまた体裁が悪い。しかし、よく考えてみると、この発想はヘンだ。芸術でチンポを立ててはいけないということはない。つまり、私の中にも「芸術か猥褻か」的な発想があったことに気づいた。芸術は高みにあって、勃起したチンポは下品との考えがあり、そこから勃起させてはいけないと思ったのだ。  チンマンをしっかり見つめるべき、セックスは恥ずかしいものではないと訴えている私が、このようなことを考えたことを恥じた。立ったら立ったで、堂々隆起した一物を彼女に見せてさしあげよう。これで破綻してしまう程度の芸術なら、そんなものはこの立派なチンポで徹底的に叩きのめしてやる。  これは芸術対チンポの壮絶な戦いの記録である。  四月十七日正午。渋谷のラブホテルに入り、そこから彼女が待機している喫茶店に電話してホテルと部屋番号を教える。ここに彼女は裸で入ってくるのだ。初対面だから名刺を渡した方がよかろうと、名刺を持って湯船に入った。プラスチック製の名刺にして役に立ったのはこれが初めてである。  湯につかって頭がボーッとし始めた頃、彼女が入ってきた気配。さすがに緊張するし、風呂の外で裸になっているかと思うと、チンポが疼くってものだ。  彼女は風呂の入口を開け、はらりとバスタオルを落し、その若い裸体を惜し気もなく晒した。おお、若い乳だ、若い尻だ、若い陰毛だ。  我々は全裸で初対面のあいさつを交わし、さっそく一緒にバスタブに入った。芸術家している娘にありがちな、目が血走ったような女を想像していたが、そういうわけでもない。じゃあ、どういう人間かというと、これがよくわからない。全裸の本人を前にして、よくわからないってことはなかろうが、人間は、服によってその人物を判断し、頭の中にあるカテゴリーに収めていることを、ここで改めて知ることになった。裸をポンと突き付けられても困るのだ。 (挿絵省略)  当初の緊張はあっという間に解け、やたら会話が弾む。やたらと話してしまうのは、照れ隠しもあろうが、家族と風呂に入っているように、あるいは、今更隠しごとのない親友のような気分でもあるのだ。裸の付き合いというのは本当である。  しかし、全然いやらしくなく、チンポはビクともしない。彼女はかわいらしい女性であり、けっこういい乳しておるが、いくらかわいくても乳がよくても、普通、家族にチンポを立てないからだ。  ただ、肌が触れると、その部分が異常に敏感になる。男は目で、女は皮膚で欲情するなどという定説があるせいで、男の皮膚はないがしろにされているところがあるが、実は男の皮膚も相当敏感な器官である。もっと肌を触れたいとの欲望が湧き、彼女の抵抗にあいながらもベッタリ体をつけたりもした。気持ちよか。それでも勃起しない。欲望への入り口が予め閉ざされているらしい。  着衣の彼女を知っていたなら、今の裸との間に妄想が生じる。しかし最初から裸の彼女には妄想の余地がない。ソープ嬢が、いちいち服を着て客を迎えるのも、妄想を作り上げるためだろう。もちろん乳を揉んだり、チンポをしゃぶられたりすれば、物理的な皮膚の快楽によって、やがては勃起するわけだが、安藤さんはソープ嬢でもヘルス嬢でもなく、単なる芸術家なので、そこまではしてくれない。早くチンポをしゃぶったり、チンポをマンコに入れ込んだりする新たな芸術の域まで達していただきたい。  こうして四十分ほど湯船につかったり、背中を流し合ったりしたが、のぼせてきたので、風呂を出た。このままではチンポの負けだ。  ところが風呂から出て、彼女がパンツをはいた途端、私は欲情した。パンツによって妄想が生じたのだ。このパンツの中にあるものをさっき見たぞと思い、それを頭の中で反芻することでチンポが刺激される。チンポの逆襲である。まだ勃起はしていなかったが、私は彼女に「一発やらせろ」と迫り、思い切りビンタされた(本当の話である)。この勝負、芸術の連勝だ。  ホテルを出てメシを食いに行ったところから、本格的な欲情が始まった。服を着ている彼女と全裸の彼女の記憶の間には妄想の隙がいっぱいだ。服を来たことでようやっと安藤紫という人間を把握できるようになってきたことも関係しているかもしれない。彼女は花柄のワンピースを来ていて、やはり血走った目をしたタイプではない。この花柄のワンピースの向こうにある胸の膨らみや乳首、スカートの奥にある繁み、それらを思い出すたび、私の股間が疼いてくる。  私はこれまでこれほど甘美かつ奇妙な感覚を体験した記憶がない。二人の間には、セックスしたばかりのような親密さがある。ところが、実際にはしていないので、性欲は残っている。ここにおいて私は彼女に対して途方もない欲望を感じ、中華料理を食っている私のチンポはずっと勃起していたのであった。  まだほんの二時間前に会ったばかりだが、二人の間には何も壁はなく、私はためらいなく、「ああ、コーマンしてえ」と彼女に堂々と言い、彼女の腕やモモを触ったりしていた。その勢いで、私は「もう一度ホテルに戻ろう」と誘ったが断られた。チンポ完敗。ホテルに戻って彼女の基本型である全裸状態になったら萎えたかもしれんがな。 「でも、お礼に今晩のオカズにしていただいてもかまいません」と彼女は言ってくれた。やったあ、今晩はこの女でセンズリだあ。  彼女によると、彼女自身、ムラムラしてしまうことがあるのだという。これまで一緒に風呂に入った男たちの反応など、もっといろいろな話を聞いたのだが、ここに書くと何かと差し障りがあるので黙っていることにする。彼女も既に風呂に入った私への警戒がなくなっていて、「おいおい、そんなことをオレに話していいのか」ということまで赤裸々に話すのだ。  風呂に入って、しかしセックスはしないというのが、これほどいいもんだとは思わなかった。私も彼女の真似をしてお風呂芸術家になろうかとも思ったが、男が女を誘っても誰も協力してくれないのが、この芸術の難点だ。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:安藤さんとはその後も何度か顔を会わせたが、もしかすると、この女ってオレと性格が合わないんじゃないかと思ったことがある。すっかり仲良くなっているので、いまさら性格が合わないと言っても始まらないのだが、裸で知り合わなかったら、仲良くなれなかったかもしれないとさえ思ったりもした。銭湯文化が衰退して、日本は大きなものを損失したのかもしれない。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:その後も彼女は何人かと風呂に入り、最後は全員で温泉に行って、大混浴大会を開くと言っていたのだが、未だ実現していない。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:この号から文字数が大幅に減らされた。もともとこの連載は月二回刊の「宝島」で毎号という話で進んでいたのに、いざ始まったら月一回にされてしまい、ここで早くもケチがついた。私にとっては文字数が少ないのは何より苦痛だ。これまででさえ十分ではなく、結局は文章を削ることに時間と労力を費やすことになるから、文字数が多い方がよっぽど楽に書ける。原稿料を減らしてもいいので、文字数を増やしてもらえないかと言い続けていたのに、この仕打ちである。これでやる気をなくした。しかも、編集者が交替したことで、それまではまだしも編集者との共同作業の部分があったが、それもすっかりなくなり、ただFAXで原稿を送るだけになり、締め切りを過ぎた場合のみ編集者から電話があるだけとなった。この連載は自分で気に入っていただけに、これ以降テンションが落ちていくことになる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 10 初めて体感、ソフトSMは歓喜の世界[#「10 初めて体感、ソフトSMは歓喜の世界」はゴシック体]  一カ月ほど前のこと、浅草キッドに会ったら、水道橋博士は熱を込めて「ワイルドキャットには是非とも行った方がいい」と私に勧める。ワイルドキャットは、代々木忠先生のビデオや本でもおなじみのセクシー・エステティシャン南智子先生がいらっしゃる性感マッサージSMクラブだ。この店は、ソフトSMとかスケベSMと言われ、客はMとしてプレイする。SMといっても、真性Mのためのものでなく、SMという道具を使うことで、男が根強く持っている性の観念や常識というものを一旦壊し、そこから男の快楽を引き出すというものである(と私は勝手に思っている)。 「ビザール・マガジン」で、全裸を晒して翔子女王様にいたぶっていただいたが、残念ながら、私はほとんど性的快楽を得ることができなかった(二一二ページ参照)。どうもMっ気というものがないらしいのだ。そして、「宝島」において、尻の写真入りで紹介したように(オレは近頃、露出狂気味なのね。翔子女王様が指摘なさったように、単に羞恥心がないだけなんだけど)、前立腺マッサージも全然ダメだった。半ば自分の能力のなさを諦め始めてもいる。  ところが、私も原稿を書いた「ブルータス」の風俗特集の取材でワイルドキャットに行った浅草キッドの二人は、以来どっぷりハマってしまっていて、彼らは「これまでの快楽の扉がひとつだとすると、南先生によって、バタンバタンバタンと五つくらい開いた(「ブルータス」では四つと言っているが)」「行って一分で声が出た」「終ったあと、しばらく立てなかった」などと力説する。  これは行かねばなるまいと思っていたところで、幸運にも、私は南先生に会う機会に恵まれた(二五六ページ参照)。この時はインタビューだけだったが、ついでに「SMも前立腺マッサージも全然ダメなんです。私のどこがいけないんでしょうか」と相談してみた。南先生は「取材だと、意識していなくても緊張が取れなかったりするので、なかなかいい気持ちになれない人が多い。意識を解放しないと、やはり快楽は得にくいんじゃないですか。プライベートで一度来てみるといいかもしれないですね」と言って下さった。このほかにも、南先生のありがたい話を拝聴して気持ちは高まり、先日、客として、友人のK君と一緒にワイルドキャットに行くことになった。  その日、南先生はいらっしゃらなかったので、みさこ女王様がお相手してくださったのだが、これがもう素晴らしい体験であった。  まず店に入ると、どのようなプレイを望むかをシートに記入する。怖い女王様、少し怖い女王様、優しい女王様とあって、怖い女王様に丸をすると、ホントに怖いことになると浅草キッドに聞いていたので、私は優しい女王様に丸をつけた。K君はMっ気があって、これまでにも何度かSMクラブに行ったりしているので、ちょっと怖い女王様に丸をつけていた。先にK君が呼ばれて、私はプレイルームのすぐ横にある椅子に座って、順番を待つことになった。  壁ひとつ隔てただけだから、K君の声がはっきり聞こえてくる。雑誌を読みながら、何げなく聞いていたら、やがてK君が叱られている声が聞こえてきた。 「こら、お前。何よ、これは」 「はい、すいません」 「こんなんで私の相手をしようとは随分じゃないの」 「すいません」  K君はただただ謝っている。どうやらK君はチンポが立たないらしいのだ。 「お前は、こういう体験が初めてなの」 「いいえ、違います。いつもは即タチなんですけど」  バカだね。そんなことを言ったら、女王様が怒るに決まっている。 「じゃあ、アタシじゃダメってことなのね」と女王様は本当に怒った様子、このあとビンタされる音が聞こえてきた。優しい女王様ならこんなことはなかろうに。 「お前はどうしたら、その気になるの」 「オマンコを見せてください」  女王様は服を脱いで、K君にマンコを見せているらしい。しかし、K君は何をやっても勃起しなかったようで、そのうち何やら雑談めいた声が聞こえてくるようになった。  反対側のプレイルームでは幼児プレイをしているらしい。 「ほらほら、ママのオマンコ、ビショビショになっているでしょ」 「うん、ボク、もう我慢できないの」 「あら、坊やはいけない子ね。オチンチンから汁が出てるわよ」 「ああ、ママ、気持ちいい」  こういう趣味は私にはないが、K君よりずっと気持ちよさそうだ。  そうこうするうち私の番になった。出て来たみさこ女王様はすげえ別嬪さんで、私は歓喜した。  まずは天井からぶら下げられた鎖に縛り付けられて、言葉でいたぶられる。でもやっぱり勃起はしない。そのうちみさこ女王様がチンチンを触ってくれたり、立ったままでのスマタをしてくれて、これでようやく半立ちになった。  鎖を外して、床に場を移す。これからは、ほとんどヘルスと同じで、みさこ女王様は全裸になってチンポをしゃぶってくれ、こちらから触ったり、なめたりしてもよい。本物のSMクラブではまずこんなことはさせてくれず、チンポさえ触ってくれず、マンコはもちろん、乳首も拝めない場合がある(店によるし、女王様によるけども)。  みさこ女王様のセリフはすげえいやらしく、ヘルスのように事務的でもなく、私は完全勃起した。これはいいやとは思うが、別段、SM的なことや性感マッサージ的なことがいいわけでもなく、別嬪さんと全裸でスケベなことをしていることがいいだけだ。チンチンを立てつつも、「やっぱりオレは才能がない」と諦めていたのだが、ところがどっこい、痙攣するくらいの射精を体験することとなったのである。水道橋博士が言っていたように、私も、虚脱状態で、しばらく立ち上がれなかった。  みさこ女王様は「暴れてたわね」とおっしゃっていたが、これは本当だ。射精する際、「あぁぁぁぁぁ〜、このままでは死んでしまうぅぅぅぅ〜」と思って足をバタつかせ、みさこ女王様にしがみついてしまった。  しかし、どうして、あれほど気持ち良かったのかさっぱりわからない。前半のSM的なプレイでは興奮せず、みさこ女王様は優しい女王様なので、翔子女王様のように恐くはなかったが、身動きできない状況では勃起しなかった。自分の肛門を鏡に映され、「お前の汚いお尻が丸見えよ。恥ずかしいでしょ」と言われても、「あ、ホントだ。汚ねえや」と思っただけで、全然恥ずかしくなかった。  途中、前立腺への刺激もしていただいたが、これ自体は決していいものではなかった。前立腺マッサージ、翔子女王様のアナル強姦を経て、私の肛門は、ものを入れるくらいなら耐えられるようになり、チンポを入れてももう大丈夫だとも思うが、みさこ女王様が指をお入れになっても、性的快楽にまではどうしてもつながらないのである。  とするなら、あのSM的プレイが意味があったとも思えない。射精時には、前立腺を刺激していたわけではなかったとはいえ、途中での前立腺への刺激が、最終的な射精に向けて、快楽の底上げをしたとも考えられる。しかし、水道橋博士は、最初にプレイをした時、アヌスは一切やってもらっていないので、どうやら前立腺は何の関係もないようにも思える。  博士は言葉だと言い、私は、SM的な行為や言葉を経て、何をされても従順になってしまうことに謎が隠されているのではないかとも思う。  あんまり気持ちがよくて、もしかすると、これからは、ずっと射精するたび、身悶えするような快楽に襲われるのだろうかとも期待して、家に帰ってすぐにセンズリしたが、いつもと同じであった。うーむ、不思議だ。  あと何度かワイルドキャットに行って、いずれは南先生の御指導も受けたい。ここに、私は快楽の秘密を見いだせるのではないか。  それにしても、みさこ女王様は大変美しくて、私の三大アイドルの一人となった。他の一人はもちろん翔子女王様で、もう一人は、同じく「ラビリンス」の亜理寿女王様。女王様ばっか。ホントに女王様って人材豊富っす。 「SPA!」にもこの間書いたが、女王様たちは、話していても非常に面白く、勉強になる(もちろん例外もたくさんあるんですけどね)。南先生ももちろんそうだ。先生は幼稚園からオナニーをしていて、性に関して隠すところなく語り、しかも自分の性や性一般に対しての分析も鋭い。マンコや性欲を晒した人間は強い。  私が今尊敬する女性は二人いる。一人は南先生で、もうひとりは先日惜しくも引退なさった李楼蘭女王様だ。尊敬するのも女王様ばっか。  南先生や李女王様は違うが、私のアイドル三人娘はいずれも二十代前半で、彼女らを好きなのは、女王様だからなのでなく、この世代だからなのだろうか。この世代には、このような人材がたくさんいるのだとすると、これからの私の人生、まだまだ捨てたもんじゃない。どんどん好きになっちゃうなあ、きっと。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:この原稿は自らボツにした。もともと仕事で行ったわけじゃなく、せっかくあんなに気持ちのいい体験をしたのに、それを原稿にしてギャラをもらってしまうことに、なんとなくのためらいがあった。また、結局のところ、みさこ女王様によってもたらされた快楽が何だったかわからないままなので、単なる風俗記事のようになってしまいそうだったからだ。しかし、随分時間が経ったことでもあり、これはこれで読み物としては完結しているので、今回、復活させることにした。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:その後、改めて南先生にインタビューをした。その際、南先生の手取り足取りのご指導を受けることができた。これは取材だったためか、残念ながら、みさこ女王様の時のような快楽は得られなかったが、南先生の言葉責めは噂に違わぬ素晴らしいものがあった。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:みさこ女王様はその後休業した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 11 己れに酔い、己れを知る女装の甘い罠[#「11 己れに酔い、己れを知る女装の甘い罠」はゴシック体] 「アタシって、キレイ」  取材で女装クラブに行ったついでに、自らも女装して鏡を見た私はそう呟いた。ガキの頃に姉のスカートをはいたり、大学時代に家庭教師をしていた女子高生に化粧してもらったことはあるが、本格的な女装はこれが初めてだ。前々から、私は女装が好きなんじゃないかとの予感があったが、予想以上の快感である。  女装(あるいは男装)は、服装倒錯、異装、トランスヴェスティズムなどと呼ばれる。宴会の余興としてシャレで女装する人は多くても、女装マニアの世界は意外に知られておらず、同性愛よりももっと陽の当らないヘンタイである。女装にはニューハーフのように、性転換を目指すトランスセクシャルを含むこともあるが、彼らは間違って男に生まれてしまった女だから、女の格好をするのは当然であり、これと一般的な女装者はちょっと違う。また、同性愛が女装者の条件ということではまったくなく、多くの女装者は異性愛者である。  女装者の皆さんによると「女装者の定義はひとりひとり違う」とのことで、その動機も方向性もさまざまなのだが、女装して勃起し、自分の姿を鏡で見てオナニーするなど、性的興奮を伴う場合も少なくないらしいし、女装者同士の同性愛(戸籍上はゲイ、見た目はレズビアン)というのもある。  私なんぞは、まるで本格派女装者の域に達していないわけだが、でも、アタシってキレイなのヨ。  私にとっての女装の快楽は、女になること以上に、男であることから逃れることにあるようにも思う。たまたま性別としては男と女しかないから女になるしかないのだが、男でなければなんでもいいのかもしれない。世間一般に言う「男らしさ」「男の生き方」を強く身につけているわけでなく、男らしくない行動をしがちな性格であったりはするが、それでもなお、社会的に男を演じている部分、男を押し付けられている部分はどうしたってある。  具体的に言えば、女装した私は、とめどもないナルシシズムを自覚した。男はナルシシズムに浸っていい文化があまりない。体を鍛えるというのがそれだったりもするが、ボディビルダーは尊敬されず、同性からも異性からも白い目で見られたりする。  着飾るといった方向のナルシシズムを持っている場合は、ロックか歌舞伎でもやるしかない。Xなどのお化粧バンドは皆女装癖というナルシシズムをどこかに持っていると言っていいだろう。  服や下着に凝ったり、宝石を集めたり、それらを身につけたり、化粧したり、そうでなくとも鏡をじっくり見たりといったように、女性のほとんどがやる、これらの行動は、すべてナルシシズムとの関わりを持つ。これまた社会から押し付けられている部分もあろうが、内面的な欲求がまるでないままに、このような行動をしている女性はほとんどいないに違いない。  しかし男だって、本当はナルシシズムに浸りたい欲求はある。ないわけがない。自分にとって自分が絶対、自分が特別であるとの思いが、女装して、ナルシシズムに浸っていい女性という存在になった途端、あるいはナルシシズムに浸ってはいけない男という存在から離れた途端、意識上に噴出される。ここには、初めての異性である母親を自分の中に見いだすという意味でのナルシシズムもあったりするのかもしれない。自分の中には、どこかに母親の面影があるはずで、それが女装をすることで見えやすくなるってわけだ。  端から見れば気持ち悪くても、自分では「あっ、きれい」と思えたりするのだから、これがナルシシズムでなくてなんであろう。これを褒められると、もう大変。褒められる快楽を自分でもよく知っているためか、女装クラブでは、皆さん、すごく褒めてくれる。 「いやー、きれいだなあ」(彼らは必ずしもオネエ言葉ではない) 「髪の毛をもう少し伸ばして、かつらをしない方がいい。そうすると、モデルみたいよ」  ホッホッホッホッ、モデルだって。バカバカしいと思いながら、そして、あからさまなお世辞とわかっていながら、嬉しさのあまり、顔がほころぶのを止められない。原稿を褒められることの数倍気持ちがいいのである。  女性は褒められ慣れているから、「心にもないこと言っちゃって」とか「私はきれいに決っているわよ。今更、何言ってんの」と聞き流したり、冷静に受け取ったりすることがある程度はできるのだろうが、私なんて、ガードの方法を知らないから、褒め言葉がストレートに琴線に触れる。それに本当にきれいだしさ、女の私。  褒められ慣れている女性でさえ、やっぱり褒められるのは嬉しいであろうことが、女装してすごくよくわかった。これからはためらいなく女性を褒めることにしよう。  女装を「気持ちが悪い」などと言うなかれ。これが気持ち悪いのなら、ことごとくの女性は気持ち悪い。電車の中で鏡を見たり、化粧する女を見るたび、「どういう神経しとんじゃ」と思うものだが、こういう神経だったのだな。また、駅のホームにある鏡やショウウィンドウに何げなく自分を映している女を見ると、「いくら見たって同じだぜ」と心の中で呟いたりもするが、この気持ちもよくわかる。私は女装クラブのトイレに行くたび、「ああ、ステキ」と自分の顔を眺めたもんだ。  気持ちは十分わかるようになったが、女たちが毎日これをやり、常時自分がきれいだなんて確認しているのかと思うと、たまにやる女装者よりも女性らの方がよっぽど今の私には気持ち悪い。  男の女装を女が笑ってしまうのは、女が男の下位にあることを認めることだし、それを固定することだと知っておいた方がよい。女がズボンをはいたりする男装化は軽蔑されないのに、逆は笑われる。これはどういうことかというと、男が女を真似ることは、上から下に落ちることであり、だから、そこに笑いを生ずる。立派な紳士がバナナを踏んで滑ると笑いを生ずるという、笑いの基本原則その一である。女が男と同じような行動をとることは、下の者が上昇することであり、支配側の男がそれを妨害することはあっても、軽蔑やら笑いに晒されることはない。  また、男が女装をバカにしたり、あるいは蔑視したりするのは、きっと、そうでもしないと、男の自分が保てないからだ。  この日以来、女装の快楽について語りまくり、「宝島」で女装特集をやろうと持ちかけ(相手にされず)、プロフィールに「趣味:女装」と書き加え、このまま本格的女装者への道を歩み、いずれは一人前の女装者となって、オナニーできるかもしれないとさえ思った。  そうこうするうち、女装心がまたまた疼き出し、辛抱たまらず、私の女装の師である女装雑誌「ひまわり」編集長のキャンディ・ミルキィのインタビューにかこつけて、また女装することになった。  今度は写真スタジオだったから、薄暗がりの女装クラブで酔っ払いながら見たのと違い、まざまざと自分の顔が見える。記憶の中では類稀な美女だったのに、鏡の中には、化粧のきつい下品なネエちゃんがいる。こんなハズじゃない。それでも、ここまではよかった。「今回は失敗したが、次こそは頑張るぞ」と、さらなる熱意を燃やしていたのだ。  ところが、そのあと無理矢理女装させた編集者のS君を見て、立ち直れないショックを受けた。 「アタシよりずっとキレイ……」  S君はもともと女っぽい顔立ちだし、ヒゲが薄く、化粧ののりもいい。  一発くらいなら、こいつとやってもいいと思いながら、ものすごい嫉妬に襲われて、「Sの野郎、女装の先輩であるオレを差し置いて、あんなにきれいになるとは何様のつもりか。ええい、忌々しい。こんなこと二度とやるか」と、一挙に熱が冷めてしまったのである。  男の場合は、ほかの男の方がカッコいいと思っても、「生まれつきだから、しょうがねえや」とあきらめもつくし、最初から、たいして気にもならない。ところが女装するには、あれこれ手間暇かけているので、どうしても人と競う気持ちがでてくる。努力が加わった分、人に負けたくないのだ。女が同性にライバル心を燃やすのも、褒められると喜ぶのも、化粧や服、下着、装飾品、エステ、髪の毛などなどに、金や努力や時間を膨大に注ぎ込んでいるためだったりするのかもしれない。  こうして私の女装歴は、オナニーをしないまま、早くも幕を下ろした。せっかく、この時、女装仕様のプロフィール写真を撮ったのになあ。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:これ以来、一度も女装していない。ホントにS君の美しさがショックだったんすよ。女装する時には、一緒にやる相手を選ぶことが大事である。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:この時の写真は女装雑誌「ひまわり」にも掲載された。SM誌、女装誌と、続々ヘンタイ雑誌を制覇しつつある。次はゲイ雑誌か。「ひまわり」の編集長キャンディ・ミルキィにはその後もいろんな場で会っている。キャンディには今後いよいよ活躍していただきたく、女装に挫折した私は陰ながら応援している。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:そもそも二度の女装は「宝島」のためにやったものではない。実はこの原稿自体、もともとミニコミ「PAPERS」に書いたものを転載したのである。連載への熱意が薄らぎつつあったんですね。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:その後「バディ」「G—MEN」などのゲイ雑誌には、何度か登場している。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 12 「裸の触れ合い」ついに相手のお部屋に出張[#「12 「裸の触れ合い」ついに相手のお部屋に出張」はゴシック体]  前に書いた「おふろプロジェクト」はさまざまな反響を呼び起こした。 「あれはいいですねえ。オレも芸術したいので、安藤さんを紹介して欲しい」という単なるスケベ男が何人もいた。また、「あれはいいわよねえ。好きな男に風呂に入ろうと言っても気持ち悪がられるだけだけど、建前があるから堂々と誘えるし、男も断りにくいわよね。私もやろうかしら」という単なるスケベ女もいた。スケベにとって芸術は便利である。  また、六月下旬、ストリップ劇場「鶴見新世界」で行なわれていた「混浴風呂ショー」は、あの記事を参考にしたものではないかとの情報まで寄せられたが、ストリップ関係者が「宝島」を読んでいるとも思えないので、いつの時代も混浴は男の永遠の憧れってこったろう。  いくつもの反響の中に、注目すべき情報があった。元担当編集者のY君によれば、十九歳の未来ある娘さんが「うちに裸で遊びに来てください」と私に伝えておいてくれと言っていたというのだ。そんなこと言われたら、行くに決ってるわな。  その娘さんは金井紀子さんと言い、先日まである出版社でバイトをしていたが、現在は無職。仕事とは別に、荒木経惟氏のモデルとして「S&Mスナイパー」などにも登場している。中野のアパートに一人暮らしなので、本当に裸で訪問しても大丈夫だという。  こうして早くも「裸の触れ合いシリーズ第二弾」が実現の運びとなった。安藤さんの「お風呂プロジェクト」は芸術のようなものだったが、私の「裸の触れ合い」は科学のようなものである。というのが表向きで、その実は切手集めや刺繍と同じような、単なる趣味であり、娯楽である。やることは同じだが、安藤さんと私は基本コンセプトがまったく違うので誤解なきようにしていただきたい。  今回も見知らぬ女性だから(あるパーティで顔を合わせたことがあるらしいが、失礼なことに私には記憶がない)、やはり全裸で初対面といこう。彼女のアパートの外で全裸になった私がドアを叩き、彼女が全裸で迎えるという段取りとなって、日にちや時間までをたった一回の電話で決めた。  さて、その当日。彼女が送ってくれた地図を片手に駅から約十分、彼女の住むアパートに着いた。なんの変哲もない木造モルタルのアパートである。  すごくよく響く鉄骨の階段を上がる。廊下の突き当たりが彼女の部屋だ。廊下に覆いがあるから、道からは見えにくいが、他の部屋の住民に全裸姿を見られたら一巻の終わり、即、私は犯罪者だ。それならまだ無視してくれることもあろうが、万が一、部屋を間違えて、チンポ出しながら「やあやあ、こんにちは」なんて入っていったりしたら、警察への通報は免れまい。この連載はおろか、私の人生まで終るかもしれないので油断は禁物である。  コソコソと辺りを見回しながら、さあ脱ぐかと思ったが、よく見ると、ドアに「十分ほど出かけています」とのメモが貼られていて、鍵を隠してある場所も書いてある。このように鍵のある場所を堂々と紙に書いてドアに貼るなら、隠しておく意味はないんじゃないかと思いつつ、部屋に入り、服を脱いで彼女を待つことにする。ドアの前で裸の男が花束を抱えている写真の構図まで考えていたのが無駄になってしまったのは残念だが、犯罪者にならなくてよかった。女の部屋に入り込んで勝手に全裸になるだけでも十分犯罪者と言えなくはないがな。  1Kの彼女の部屋は、ほとんど物が置いておらず、やたら殺風景である。このアパートに住む前は人の家に居候していた女だから、持ち物が少ないのだ。しかし、小物などのセンスを見ると、やっぱり女の子の部屋ではあって、嬉しくなった私はテレビやテーブルにチンポをペタペタつけて私が来た証拠を残したりした。犬の小便のようなものである。  そうこうするうちに彼女が帰ってきた。私がいる部屋と台所との間のカーテン越しに、「全裸で部屋に入ってくるように」と命ずるが、「えー、やっぱりやめましょうよ」と、今になって抵抗しやがる。既に全裸になっている私の立場はどうなる。この時、編集者のY君やカメラマンもいたのだが、彼らは着衣のままであったため、急に全裸である自分が恥ずかしくなってしまった。 「いまさら何を言ってやがる。そんなことを言われると、オレは人のうちに勝手に入って全裸になっている変人のようになってしまうじゃないか」 「だって、そうじゃないですか。さっさと服を着てくださいよ」とカーテンの向こうの彼女。 「そんな。これではわざわざ君の裸を見に来た編集者やカメラマンは何しに来たかわからないし、私の連載も困ったことになる。じゃあ、こうしよう。写真を撮り終わったら服を来ていいから、ひとまず脱ぎなさい」  こういう条件で、ようやっと彼女は納得し、服を脱ぎ始めた。間もなく彼女は裸で入ってきた。ホッホッホッ、若い娘のピチピチした裸。彼女はなんと一九七二年生まれ、私が中学二年の時に生まれている。ほとんど親子だ。あの頃子供を作っていたなら、もうこんな立派な娘さんに。大変感慨深い若い娘っ子の全裸である。  あんなに抵抗していたくせに、彼女はいざとなると、まるっきり隠しもせず、堂々たるものである。それはいいのだが、眉がない。眉がない女の九割は暴走族か舞踏家だが、彼女の場合は、モデルをやる際に眉を描いた方が顔を作りやすいからだそうだ。それに、毛を剃ること自体が好きだともいう。見ると、生えてきたばかりのチクチクした陰毛だ。陰毛もよく自分で剃っているのである。眉剃ってマン毛剃るだけでも変わっているのに、彼女は、春夏秋冬いつも部屋では全裸である。ひとりヌーディスト村。 「別にポリシーがあるわけでも健康法でもなく、ただ、服を着るのが面倒だからですよ。中学の頃からずっとこうだから、裸でいる方が自然なんです。よくノーパンで出かけたりもしますよ」  この女を外で見かけたら、「この女、今、パンツをはいてないのか」と思って興奮してしまうなと、全裸の彼女を前にして全裸の私は思うのだった。 「誰かが家に来たらどうするの」 「ちょっと待って下さい、と言って服を簡単にひっかける」  彼女の家を訪れるセールスマン、新聞の拡張員、宗教団体の勧誘員の皆さんにお伝えしておくが、彼女が皆さんの前に出てくる時は、下着をなーんにもつけてませんぜ。  眉は剃るし、陰毛剃るし、一人ヌーディスト村だしで、この女、相当変わってる。と、人のうちに来て勝手に裸になっている私は思うのだった。  こんな彼女が裸になるのを拒んだのは、付き合っている男が、松沢の前で裸になってはいけないと言ったからだそうだ。「第一回裸の触れ合い」の原稿を読めばわかるように、ちょっと気を抜くと、「一発やらせろ」と私は迫ったりするので、その判断は正しい。 「その男は正しい。正しいが、これは人間の欲望とは何か、性とは何かを見極めるための壮大な科学実験である。チンポが立つかもしれないし、セックスしてしまうかもしれないが、あくまで科学的にチンポが立ったり、マンコが濡れたりするのだから、そのような反科学的な狭い了見では困るな」と私はチンポをクルクル回しながら説教した。芸術は便利だが、科学も便利だ。  彼女は、はっきりとした記憶はないが、恐らく三、四歳からオナニーしていたと言い、そのキャリアの長さもあってか、非常に特異なオナニー癖を持つ。また、性的な体験によるものと思われるM的嗜好が強く、欲望の形成に非常に興味深いものがある。これらの話をたっぷり聞かせていただいたが、これはまた別の機会に紹介させていただくとしよう。  彼女はチンポから小便が出るのを見たことがないというので、本日のお礼に見せてあげた。裸になると、やることが小学生並みになるというのが今回の壮大な科学実験の結論である。  金井紀子の感想。 「松沢さんのオチンチンからオシッコがほとばしる様を見られて面白かった」 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:彼女とは、その後もパーティの場で顔を合わせたり、たまに電話がかかってきたりするが、いつもとんでもないことを言い出すので面食らう。とんでもない部分を誰にでも晒しているのかと思い、二カ月ほど前、あるパーティで久々に会った際に、ついあることを口走ったら、すごく慌てていた。あとで聞いたら、その時一緒にいた男に恋をしていて、「あんなこと言わないでくださいよ」と怒っていた。かわいらしいところもあるもんだ。そのパーティの時は、ビデオ会社で働いていると言っていた彼女だが、この子のことだから今頃はもう辞めているかもしれない。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:意外にもこんな女性が現れて、再び、この連載への熱意を取り戻した。いろんな女性といろんなシチュエーションで知り合って裸でインタビューするというシリーズ化を図り、別の雑誌でも参加者を募った。その結果、しっかり名乗り出たのがいたのには驚いた(第十五回および最終回参照)。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:金井さんへ。連絡下さい(この原稿をそのまま載せていいのかどうかを確認しようと思ったのだが、以前教えてもらった電話番号が使われていないのだ)。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:これを見た彼女から電話があったが、電話番号を聞き忘れた。電話下さい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 13 日米コンドームを使用して比較する[#「13 日米コンドームを使用して比較する」はゴシック体]  エイズによって、コンドームが脚光を浴び、いろんな雑誌でコンドームの特集をしているが、どうも気に食わない。エイズについて真剣に考えるというなら、我々の性や生を一から捉え直すべきだし、そうする格好のチャンスでもあるというのに、すべてをコンドームに任せることで問題を済ませておこうとの意図が感じられてならない。  その証拠に、コンドームを紹介する記事のほとんどは、「こんなステキな商品が発売されました」「こんなにたくさんコンドームには種類があるんですね」と、宣伝資料を書き写しているだけだ。一体これはどういうことか。  雑誌のライター、編集者たちは、アゴアシつきの新車試乗会に行って「まあ、なんてステキな乗り心地」とやり、観光局や旅行代理店からの招待旅行に出かけて「まあ、なんて素晴らしい国」とやってみせ、グルメ特集でタダ飯を食って「まあ、なんとまったりとしたお味」とやるくせに、どうしてコンドームについては、実際に使って「まあ、なんてヌレヌレ、ビンビンのチンマン感触」と書かないのか。私が見ていないだけかもしれないと思い、念のためにオカモトに問合わせたら、これまでに使用感のベストテンをやった雑誌は一誌だけだったという。処女と童貞ばっかりじゃあるめえし、気取ってんじゃねえぞ。  このような雑誌記事の無責任さが象徴しているように、結局のところ、多くのマスコミはセックスを正面から捉える気などなく、ただ、コンドームだけは語っていいものだとの社会的合意を背景にして、コンドームを紹介してエイズへの対策をやったかのようなツラをして悦に入っているだけだ。彼らがセックスを取り上げる時も、何のことはない、そうすると売れるからだ。本当のことを知ろうとか伝えようなんて気はさらさらないのである。  などと言いながら、私も、使用せずにコンドームの記事を書いたことがあるので、今回はその懺悔として、コンドームを実際に使ってみることにする。用意したのは、国産とアメリカものを約四十種で、使ったのがざっと二十種。並べるだけで壮観で、見ているだけで満腹感さえある。  まず簡単に装着できるのが売りのコンドームを使ってみた。使い慣れていない初心者にとってコンドームは装着に難点があり、なかなか装着できず、それでいよいよ焦って手が震え、女はすっかり冷めて「まーだぁ?」なんて言い出して、やがてはチンポが萎えてくる。こうしてセックスへの自信を喪失することもある。  これを克服するためにメーカーはあれやこれや研究開発していて、スプレーでチンポにラテックスを吹き付けるなんてものも考えられているが、これはこれで吹き付けて乾くまでに時間がかかってしまい、隙間ができると精子が漏れてしまう危険があり、それを防ぐためには全体に厚くならざるを得ない。まず実用化はされないだろう。  その点、米製のメントール・プラスと西野商事のワンタッチは、アプリケーターがついていて、装着が楽になる工夫が凝らされている。確かに、いずれも亀頭につけて以降は片手でスルリで、この点は評価できるのだが、初心者最大の難関、亀頭部分はこれまでとさほど変わらず、これではやっぱりコンドームによる自信喪失を解消できはしまい。また、話題のミチコ・ロンドンのコンドームも、裾広がりになっているので装着しやすいと言われており、そんな気がしないではないが、これまた決定的な解決にはならない。  こりゃもう慣れるしかなく、慣れてしまえばコンドームをつけるのに、苦労することなどまずなくなる。マンコをいじったり、乳をなめたりしながら、ちょいちょいちょいでさあ。あるいは、女の子につけてもらえば、あの気まずい時間が苦じゃなくなるから、女の子たちも口や手でつける練習をしておきましょう。この点で、風俗の体験がある女性を彼女にすると好都合だ。  メントール・プラスを含め、米国製は三種類ほどつけてみたが、どれも厚い。正確な厚さはわからないのだが、どれを見ても日本製の方が勝っている。なにしろ構造からしてこれ以上はあり得ないという〇・〇二ミリを達成した我が国の技術だ。そして、これはコンドームの原料や、ついているゼリーに違いがあるのかもしれないが、なんとなく日本製の方が自然な感触がある。  今回全部を使いはしなかったが、私が持っている米国製ものでは、バラの形にパッケージされていたり、味がついていたり、蛍光になっていたり、性感を高めるための妙な突起がついていたりと、より楽しむための工夫があれこれされており、こういったところでは日本のメーカーにももっと努力して欲しいところだが(メーカーの問題でなく、医療器具であるコンドームを管轄する厚生省の問題がより大きい。また、ゴルフボール型の容器に入ったものなど、日本でも随分いろいろなものが出始めてはいる)、純粋な使用感で言えば、日本ものの方がずっといい。  日本のコンドームは海外にも輪出されており、特にエイズ以降の輸出の伸びは著しい。これは日本のメーカーくらいしか大量の需要に対応できないという事情があるのだが、品質の良さが海外でも大評判で、在米の知り合いに調べてもらったら、アトランタのコンドマートでは、相模ゴムの製品が非常に高い人気があるとのことだった。ピルなどの避妊が早くから普及した欧米では、コンドームの需要が減って、コンドームそのものの進歩が止まったのに対し、日本では現在までコンドームは主たる避妊方法として支持されてきたために製品開発が進み、また、規制が厳しいため、薄さや使用感といった方向での差別化を図らざるを得なかったという背景がある。  ただし、あちらでは「日本ものは小さい」とバカにする傾向もあるのだそうだ。日本のメーカーによると、「輸出用は大きいサイズにしてあって、小さいハズがない」とのことなので、根拠のない日本人蔑視である(長さはいずれも変わらない。精子が漏れたり、コンドームが抜けたりしないように、国内で売られているコンドームも、チンチン以上に長くなっているのだ)。知人の報告では、アメリカ人は見栄を張って実際のサイズより大きいサイズを買っていく傾向があって、チンポへのコンプレックスは日本人以上に強いと思われる。「日本のコンドームが小さい」などというのも、このコンプレックスの裏返しだろう。まったく、ロクでもないヤツらである。でも、輸出用はしっかり大きくしてあるってことは、やっぱり日本人のチンポは小さいってことなんだなあ。ロクでもないヤツらよりチンポが小さいのは情けないなあ。  日米コンドーム戦は簡単に決着がついたが、国内戦は困ったことになった。日本製のコンドームは使用感に差があまりないのだ。模様の違いや段つきをチンポで感じることがほとんどできない。チンポもマンコも、僅か〇・〇何ミリという単位の薄さのコンドームについている段や模様などを感知できるほど敏感ではないのである。あとは見た目の問題だけだが、ほとんどのセックスは薄暗がりでなされるのだし、煌々と照る照明や太陽のもとでセックスする場合だって、いちいちチンポにはまったコンドームを見て、「わあ、きれい」とか「三段になっているのがサイコー」なんて眺めるわけでもない。  コンドームは、ガラスの型にラテックスを付着させて作る。原料費はどれも変わりはしないが、模様をつけたり、段をつけたりすると、ガラスの製造に金がかかり、これが定価にも反映する。ところが、ガラス製造費の差だけであれほどの値段の差が生じるとも思いにくく、定価の差はコンドームそのものの差以上に、パッケージやブランド使用料などの差であって、性能としてはもちろんのこと、原価としたってたいした差はないんじゃないか。  ただ、その中で二種類だけ、「おお、これは」と思わせたものがある。  まず、ピーチーズの侶木氏も推薦のオカモトのノクターンである。これはオカモトの最高級品で、精子溜りがないため先に空気が入りにくい。あれは邪魔だよな。さらにはリアルなチンポ形をしているので、カリにもフィットする。かゆいところに手が届く感じだ。カリに合わせた型を取るガラスを作るのが難しそうで、だから値段が高いのだろうが(ただし、これも容器が非常に凝っていて、そこに高級品たる所以がありそうではある)、精子溜りがないのは簡単に安く作れるはずだ。なのに、どうも日本製で精子溜りがないのはこれだけのようである。どうしてなんだろう。  オカモトによると、ノクターンは亀頭部に精子が溜まるようになっているが、亀頭部にくびれのないものだと、逆流して膣内に流れ出す危険が高いという。しかし、くびれのないコンドームでも、セックスしたあとでマンコにチンポを入れたまんまテレビを観たりしてくつろがない限り、精子が根本まで逆流するようなことはあまりないんじゃないか。「しばらく抜かないで」という女は少なくなくて、つい間違って寝てしまうこともあるから、安全に越したことはないけども。  私が「おお、これは」と思った、もうひとつのコンドームは不二ラテックスの「やや太め」と「やや細め」だ。意図したわけではないが、業界二大大手の商品が並んで、うまくバランスが取れて、よかった、よかった。  この二つを使ってみたら、そのはっきりとした差に驚いた。「やや細め」はつけにくく、つけたあとも窮屈だ。ああ、カリ首が締まって窒息しそう。これに対して「やや太め」はつけやすいし、装着後も楽である。挿入してから抜けるというほどの大きさでもない。  水を入れてみると、ものすごい量が入ることでもわかるように、コンドームは伸縮性があるので、小さくても問題なしと言うメーカーもあるが、サイズの合わないコンドームはやはりよくないとはっきり私は言っておく。もちろんアメリカ人のように、自分のサイズ以上に大きいブカブカのコンドームをしたんじゃ、抜けてしまって問題ありだが、適度なサイズというのがあるのだ。ということは、大きさや形をもっと細分化した商品を作り、自分のチンポの大きさや形を正確に把握した上で最も適切なコンドームを選ぶべきなんじゃなかろうか。  以上がだいたいの実験結果である。今回の結果を不二ラテックスに行って問い質した。 「アメリカものが厚いことはわかるんですが、日本物はどれもこれも同じで、区別できないんですけど、これは一体どういうことでしょうか。私のチンポが鈍いってことなんでしょうか」 「おかしいなあ。そんなはずはないですよ」 「本当ですよ。不二ラテックスさんの商品で言えば、『やや細め』に比べて、『やや太め』が非常にいいことは認めますが、暗闇でテストすれば、大きさ以外について、ほとんどの人が区別できないと思いますよ」 「ははあ、わかりました。それは松沢さんのが太いから、他はどれも窮屈で区別できないんですよ」  そうだったのか。今まで十数年、私は二十六センチの足に二十四センチの靴をはいてジョギングしていたのだ。これじゃあ、個々の靴の違いもわからないわけだ。  というわけで、今回の実験を総合的、実証的に分析した結論は私のチンポは太いということである。  ところで、私は一人で長時間、勃起させられるほど若くはないので、今回はアシスタントの女性に協力してもらった。では、彼女のコメントも聞いてみよう。 「ああ、もうダメ。どれでもいいから、やめないで」  この女、アシスタントに向いてない。 [#ここから2字下げ] 追記一(掲載時についていたもの)[#「追記一(掲載時についていたもの)」はゴシック体]:この原稿は締切の一カ月前に入れたのだが、この一カ月の間に、「ポパイ」(一九九三年八月十一日号)「判決を下す」特集で、水島裕子が「感じるコンドーム」と題し、十二種のコンドームの使用感を述べた記事が出た。水島裕子は凡百のライターや編集者よりずっと偉い。ここでもノクターンが最高点を獲得しているが、その理由は「男性は、ナマでしているみたいと喜ぶ」からで、この評価を見ると、水島裕子のマンコは、その使用感の差を判断するほど敏感ではなかったようだ。もちろんこれは水島裕子が悪いのでなく、膣内は男が思っているよりずっと鈍いものなのだ。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:本当のところ、私のチンポは太いし、カリ高である(ただし、長さはたいしたことはない。昨今の若者のチンポは着々と長くなっているので、もはや私のチンポは平均以下かもしれない)。従って、アメリカ製のコンドームでも使用可であり、厚いとはいえ、楽ちんなので、今でも時々使っている。なお、海外のコンドームは、JIS規格を通っていないため、販売してはいけないことになっており、この実験で使ったのは、特殊ルートから入手したものである(販売さえしなければ、持ち帰ることは可能なので、特殊ルートを使わずとも簡単に入手できる)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 14 ※[#マル秘、unicode3299]ヘア写真の上手な撮り方教えます[#「14 ※ヘア写真の上手な撮り方教えます」はゴシック体]  前々回に掲載された写真を見て驚いた。事前に見ていなかったので、私の陰毛が写っている写真を使ったことを知らなかったのだ。  別段変わった陰毛ではないから、見られて恥ずかしいものではなく、なんだったらチンポを出してもいいのだが、小道具を使って、もっと趣向を凝らした写真をあれこれ撮ったのだから、何もあんな写真を使わなくてもよかろう。さらにけしからんのは世間の人々の反応だ。「汚い」「けがらわしい」「見なければよかった」などなど。なにおー。  先日、『百万人のお尻学』(講談社)の山田五郎氏が的を射た指摘をしていたので、ここで御紹介することにしよう。 「ジュリアナでパンツ丸出しで、あるいはパンツもはかずに踊る女たちは、女子高の校門で待ちかまえ、女子高生が出て来るとコートを開いてチンポを見せるオヤジと同じだ。オヤジは犯罪者なのに、ジュリアナ女がチヤホヤされるのはどういうわけか。これは男女差別ではないのか」  一点のスキもなく真実を捉えた見事な発言である。  これと同様、宮沢りえが「私のマン毛を皆さんに見て欲しい」と思ったのと、私が「チン毛を皆さんに見て欲しい」と思った気持ちの間には何の違いもない(私の場合、別に見て欲しいと思ったわけじゃないが。宮沢りえも「マン毛を見て欲しい」と思ったわけじゃないのか)。ああ、それなのに、私の陰毛に汚さを感じ、宮沢りえの陰毛にはナチュラルな美しさを感じてしまうとはどういうことか。君たちの感性は狂っている。どっちも毛ではないか。  よく見れば生え方、ねじれ方、長さ、太さにおいて男女の違いはあるが、法医学者でもなければ、陰毛だけを見て、男のものか、女のものかを判別するのは相当難しい。ちなみに法医学の世界では、陰毛は非常に重要視されている証拠物件である。性別はもちろんのこと、性生活まである程度わかる。セックスを頻繁にしている人は、こすれて陰毛のキューティクルが剥離してしまうし、長く成長する前に抜けてしまう。ソープのおねえちゃんだと、石鹸やローションでひどく毛が痛んでいたりもする。もちろん、ハサミで刈り込んでいる場合は先端を見ればすぐにわかる。そういった毛を見つけると、「こいつはハイレグを着ている」と推測できるってわけだ。そして、陰毛は、どんな場所にも落ちているから、証拠として収集しやすい。百瀬隆人・須藤武雄著『誰も知らない毛のはなし』(有紀書房・絶版)にはこんな話がたくさん出ていて、陰毛が証拠になって捕まった犯人もいる。タバコについた唾液やグラスに残された指紋で捕まるならまだしも、陰毛で捕まったりすると、何か納得できんようなものが残ったりする気がする。  陰毛は日々やたらと抜けているようで、部屋の掃除をすると、どうしてこんなに陰毛が多いのかと思うことがある。下手をすると、髪の毛より多かったりもしそうだ。生えている数は比較にならず髪の毛の方が多いが、陰毛はある程度の長さになるとどんどん抜け落ちるから、髪の毛よりもずっと生え変わりが激しいのだろう。  部屋ならまだわかるが、フリチンでいるわけでもない事務所や店にだって陰毛は落ちている。パンツの隙間から落ちた陰毛がズボンやスカートを擦り抜けて落ちるのか、トイレに行った際に、体のどこかについた陰毛が落ちるのだろう。といった話を俳優の田口トモロヲにしたら、「国連の会議室にも各国の陰毛が落ちているはずだ」と言った。黒い陰毛、茶色い陰毛、金色の陰毛がカーペットの上で仲良く並んでいる光景は心温まる。世界に平和を。 (挿絵省略)  前に、パソコンのプリンターの調子が悪くて、フタを開けて中を見たら、そこにも陰毛が一本落ちていた。床に置いているプリントアウト用の紙の束に陰毛がつき、紙をプリンターに挟んだ時に陰毛が中に落ちたのだろうと推測したのだが、最も陰毛がありそうにない場所で陰毛を見つけたために、我々が抜け落ちた陰毛だと思っているのは、まだ未発見の虫か何かではないのかとさえ思った。毛根のように見えるのが頭部である。私は仮にこれを「陰毛虫」と名付けて、世界的な発見を目論んでいるのだが、未だ決定的証拠は見つかっていない。  陰毛はある程度の長さになると抜けるとは知らず、ほんの数年前まで陰毛の先を切っていた男が「CUTIE」の編集部にいる(その後異動)。彼は、ほっとくと陰毛がどんどん伸びて短パンのスソからハミ出てしまうと信じていたのだが、いつものように陰毛を切っているところを彼女に見つかり、「なにやってんの」と問いただされ、初めて陰毛は切らなくてもいいことを知った。こいつの陰毛が殺人現場に落ちていたら、法医学者も頭を悩ますことだろう。 「犯人は、ハイレグを着用している男だ」  それにしても、二十年以上、どうしてそんなことに気づかなかったのだろう。何か彼の生き方には重大な欠陥があるような気がしてならない。  とまあ、陰毛ばなしは尽きないが、話を戻すと、陰毛の性別を見極められる法医学者でさえ、男の陰毛と女の陰毛、どっちが汚くて、どっちが美しいかを判断することなどできやしまい。それを証明するため、某誌の編集者Mを説き伏せて、ヘアヌード写真を撮ってみることにした。  撮影はその編集部に誰もいなくなった深夜、二人っきりで行なわれた。最初は抵抗していたMだったが、やがて観念したように下着をハラリと脱ぎ捨て、その秘部を晒した。  それまでヘラヘラと笑っていた私も、Mの股間をファインダーから覗いた途端、ムラムラしそうになって困った。何故困ったかといえば、Mは男だからだ。Mの隣に座っている女性編集者が普段仕事で使っているハサミと、私が近所のコンビニで買って行ったカミソリを使って、全体的に短く刈り込み、ヘソ毛を剃り、陰毛の両サイドを落した。印刷だとわかりにくいだろうが、皮膚の色がちょっと変わっている部分があるのはカミソリ負けである。もちろんチンポと金玉は股間にはさみ込んでいる。  本当はもう少し両サイドを落した方が、しっかりお手入れしているネエちゃんを思わせてよかったのだが、彼女にバレたらまずいということで、妥協せざるを得なかったのが心残りだ。しかし、こうしてみると、やはり陰毛など、男も女もたいして違いはない。これからは男の陰毛に対しても寛大に対処することを切に願う。  陰毛写真集ごときで騒いでいた諸君、これからは、自分や男の友達の股間を写真に撮ってセンズリこけば写真集いらずだ。  もしいい作品ができたら送っていただきたい。優秀作には、私がじきじきにセンズリこいてあげよう。 〈陰毛写真の上手な撮り方〉 〇皮下脂肪のついたモデルを使う。 〇陰毛は全体的に短めに切り、左右に広がった部分も落した方がよい。 〇スネ毛、ヘソ毛などは徹底的に処理する。 〇チンポ、キンタマをうまく股間にはさむと、マンコの切れ目状のものを作ることもできる。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:締め切りが迫ったため、非常に安易な方向に走った回である。現場ではけっこういい感じだったし、生の写真の段階では悪くなかったのに、印刷されたのを見たら、実際の写真よりもずっと汚く見えて、これでは男の裸であることが丸分かりだ。読者からの投稿があったら、面倒な取材するのをやめて、この連載を男性ヘアヌード・コンテストのページにしてしまおうと思ったが、一通も反応はなかった。この連載、編集部のみならず、読者の受けもよくなかったことを知って、やる気がいよいよなくなった。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:本当は、陰毛については取材したいことがあり、この連載が始まった当初から調べていたのだが、結局わからないままだった。現在別のルートから調べており、判明し次第、「SPA!」の連載で報告したいと思う。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:その後「SPA!」の連載で陰毛についてさらに調べた(単行本未収録)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 15 ブルセラする女子高校生の本音とは[#「15 ブルセラする女子高校生の本音とは」はゴシック体]  某県の女子大生から「『裸の触れ合い』に参加したい」との手紙が届いたのだが、「宝島」編集部はそこまでの交通費を出せないというではないか。日帰りで行けるところなのに。彼女とは、いずれ他の仕事で近くに行ったら裸で合うことを約束し、今回は女子高生だ。  テーマはブルセラである。ブルセラショップ摘発をきっかけとする女子高生叩きはあまりに浅薄で、女子高生を叩く暇があれば、警察による不当な摘発を断固叩くべきであろうとかねがね思っているのだが、当の女子高生はどう考えているのだろう。それにしたって、いまさらのテーマだが、これが主題なのでなく、「裸の触れ合い」を女子高生相手にやろうとの魂胆だ。  ブルセラを売ったことがあり、なおかつ裸でインタビューさせてくれるのはいないかと知合いの女子高生に相談した。彼女はさっそく探してくれたのだが、「インタビューをするのに、どうしてタダで裸にまでならなければいけないの」と言われてしまったという。私のやっていることに意味を求められても困るっす。「宝島」の仕事で金を求められても貧乏編集部は困るっす。  しょうがないので、自腹を切って一人五千円くらいで三人ほど見繕ってもらおうとも思ったのだが、「全裸だったら、一桁違いませんか?」と言われてしまった。 「オレだって裸になるんだよ。おあいこじゃん」 「何それ」  タダでも裸になる自分を基準にして五千円なら十分だろうと思ったが、女子高生の裸が五千円では確かに安すぎるな。  私の主眼は女子高生の弾けるような裸であって、インタビューは二の次だったのだが、締め切りも迫っていることなので、今回は着衣でインタビューすることに妥協し、別段聞きたくもないブルセラのインタビューをすることになってしまった。  某月某日、三十分も遅刻してしまったため、時間を持て余して売春でもしているんじゃないかと思ったが、セーラー服の三人は待ち合わせ場所の喫茶店でおとなしく待っていた。いや、おとなしくというのは間違いだ。こいつら、よくしゃべる。意味のないことをくっちゃべるのでなく、非常に論理的に、かつ明快に話をしてくれる。  三人とも同じ有名お嬢さん女子高の三年生だ。この学校、偏差値が非常に高いことでも知られており、なるほど彼女らは頭が切れる。さほど興味のないブルセラの話だったが、人選がよかったためか、すっかり彼女らの話に聞き入ってしまった。  ひとりは制服のみ、ふたりは下着からハイソックス、パンスト、体操服などを売っている。うち、最も積極的に売っている子だけがブルセラを売っていることに「罪悪感が少しある」と言い、他のふたりは「ない」とはっきり答えた。罪悪感があると答えた子は、先日のブルセラショップ摘発の際に、警察から自宅に電話があって、親に叱られた体験を持つ。このことが影響しているのかもしれない。 「それと、体操服は落し物の箱から拾って売ったりもしてますから」  ブルセラショップは、盗品を避けるために、持ち込んだ女子高生と服に書き込んである名前が一致していないものは買ってくれない。しっかりとした経営である。従って、彼女が売ったのは名前のないものだけである。買取値は体操着の上下とハチマキの三点セットで五千円。元手なしだから、これはおいしい。私が女子高生なら、やはりこれくらいはやる。あまり褒められたことではないが、どうせ二度と使わないものだ。資源を大切にするエコロジーな行為でもある。それでもかっぱらいではあるから、このことがいけないことだとしても、それとブルセラの是非とは別問題だろう。 「ブルセラは、欲しい人と売りたい人がいて、自分のものを自分の意志で売る分には何も問題はないと思う。他の古着と一緒じゃないですか」  そりゃそうだ。 「そういったものを買う男はバカだと思うけど、直接会うわけじゃないから、考えなければそれまでですよ」  これもその通り。古着屋で服を買って、それを着てセンズリこいている女装マニアは現にいる。女性が捨てた下着を拾ってきて、はいている女装マニアも現にいる。ブルセラの場合、これらと違って、下着フェチや女装マニアの手に間違いなく渡ることを前提としてはいるが、わからなければそれまでである。それを想像できないのはおかしいというのなら、確実にどこかでセンズリこく男がいるだろうに、女性タレントが雑誌や写真集でヌードになったり、水着になったりするのもおかしい。オレだって若いころやっていたが、男って、雑誌のグラビアにチンポを押し当てたり、顔に向けて精子を出したりするんですぜ。中には女性アナウンサーをテレビで見てセンズリこくのだってきっといる。女性アナウンサーがテレビで平然と顔を出すのがおかしいんか。 「ブルセラショップで下着を買うのも自由だと思うけど、そういう男は絶対好きにならないし、気持ち悪い」 「わたしもイヤ。もし自分の好きな男が買っているのがわかったら別れる(笑)」 「自分のをタダであげるから行かないでって言う(笑)」  とまあ、彼女らは客のことを軽蔑していたりもする。自分のことは棚に上げて、これはけしからん気もするが、「うちの雑誌の読者はバカばっかりだからさ」と読者を侮蔑しながら雑誌を作っている編集者なんぞはいくらでもいるし、消費者をバカにしているメーカーはいくらでもあるのだから、中古下着製造者である彼女らだけを責めるわけにはいくまい。  ここで整理しておくと、ブルセラを批判する側の根拠はいくつか挙げられる。まずは、性観念、性道徳が「堕落」したことをもってする批判である。しかし、先に書いたように、たかが古着である。マンコを見せて金をもらうわけでもない。  ここに関わるが、単なる古着とはいえ、そこにしみついた女子高生という性的な付加価値を売ること、つまり女性性を売り物にしているという点からの批判もあろう。しかし、女性性を売り物にして何がいけないかである。スカートは決して行動的な衣服でなく、強姦やら痴漢にだって遭いやすい。にもかかわらず、制服としてあんなものを強制的に着せることは既に女性性を売り物にすることと等位であり、ブルセラショップを発生させたのも、あのような制服の存在そのものに一因がある。また、女らしく育てることを教育理念にしている女子校だって少なくない。女性性を売り物にする教育をしている学校の生徒が、今の世の中での女性性の価値を手玉に取ることは、教育理念を見事に体現していると言い得る。だったら、まずはこんな女子校をぶっつぶしてはどうか。  次にビデオ出演やら売春につながるという発想である。テレビや雑誌の報道では、「ブルセラ=ビデオ出演=売春」といった構図で語られていたりもしたが、これは彼女ら本人に反論していただこう。 「ブルセラと売春は全然イコールじゃないですよ。私たちは絶対に売春なんてしない。ああいう報道は腹が立つ。ちゃんと調べて言って欲しい」 「私の友だちで売春してる子は下着なんて売ってないよ」  その友だちは安くて一発三万、最高では七万もらったこともあるので、下着をチマチマ売るなんてバカバカしいことはやってられないってこった。なにしろパンティは買い取り値がたったの千五百円程度である。 「ちゃんと私がはいたパンティなのに、派手すぎるって買ってくれないこともありましたよ(笑)」  花柄や黒などは女子高生らしくないので商品にならない。女子高生のパンティは、清純無垢な白が一番ということなのだろうが、清純無垢な娘がパンティ売らねえってえの。 「シミがついてないと買ってくれなかったりで、それなりに苦労はあるんですよ」  シミをつけるようにはかなければならず、かといってウンコがついていると、彼女ら自身が売りにくかったりもするから、マンコ汁と小便だけをつけるように一日中はくのはけっこう気を遣う重労働である。それで千五百円。  結局のところ、ブルセラショップを摘発する正当な理由などありはせず、事実、古物商の許可を取っていなかったという、通常ならばまず摘発などあり得ない理由しか警察は見つけられなかった。それを正当化するための「ブルセラ=売春」の構図でしかない。  ブルセラ女子高生と売春女子高生は同じではないにしても、ブルセラが売春の引き金になるとの意見もあろうし、これに関してはまるっきり可能性のない話でもない。悪徳業者がいて、下着を売りに来た女子高生に売春を勧めることがないわけではなかろう。しかし、過去の事件を見ればわかるように、スナックや喫茶店だって、売春のきっかけになることがあるのだから、可能性だけで、ブルセラという立派な商行為を正当な根拠なく摘発してはいけないし、もし売春を斡旋しているといった事実があるなら、堂々と売春防止法によって個別に摘発すべきである。ここでは、より扇情的に見せかけ、視聴率を伸ばし、部数を伸ばそうとするマスコミのいつものやり口こそが問題にされるべきではないか。 「結局、テレビや雑誌でも、女子高生の意見は全然出てなくて、ヘンなオヤジが知りもしないで勝手な意見を言ったりしてるだけですよ」  ヘンなオヤジですまん。 「女子高生が全員下着を売っているかのような報道も腹が立つ」  だって、あんたら、売ってんじゃないか。 「私たちのような一部女子高生のせいで、売ってない子がそう思われるのはかわいそう(笑)」  彼女らの学校では、ブルセラショップに行ったことのあるのは、せいぜい二十人に一人くらいだろうという。 「他の子たちも、売りたいとか口では言っているけど、うちの学校はお嬢さんが多いから、そこまでは踏み切れないみたい」 「でも、あの事件(ブルセラショップの摘発)でブルセラショップを知って、売りに行った子は絶対増えてるよね」  これはある週刊誌の編集者から聞いた話だが、ブルセラショップの記事を見て、「売りに行きたいので、連絡先を教えて欲しい」という女子高生からの問合せが現に何本もあったそうだ。私が会った三人は、事件のずっと前から売っているが、実は「宝島」に出ていたブルセラの記事を見たのがきっかけだ。 「でも、最近の『宝島』は裸とかがすごくて、買えない雑誌になっちゃったよね」  至極まっとうな感覚である。彼女らが私の顔を確認するために持ってきていたのは、私の全裸写真が出ていた「裸の触れ合い第二回」が掲載された号だ。 「おい、やめろよ、そんなのをここで開くのは。せめて他の号を持ってこいよ」  私の感覚も意外にまっとうである。  話を戻すと、ブルセラ批判の根拠のもうひとつは、若い娘が大金を持つのはよくないという教育的見地からのものだ。  彼女らのうちふたりは、こづかいの額が決まっておらず、なくなると親にねだるシステムである。無条件で一定額をもらえるわけではないので、常に親孝行のひとつもやってなければならないってわけだ。残りのひとりは月に一万円である。 「月に一万じゃ、ちょっとごはんを食べたりしたら、もうなくなっちゃう」  一万円じゃ、メシはおろか、喫茶店に入ることさえままならぬ。今から二十年前、私が高校時代だって一カ月五千円もらっていた。それでも足りず、休みにはバイトもしたし、古本を売ったことだってある。あの当時に比べると物価は二倍以上になっていよう。これだけ大人たちが女子高生にモノを買わせようと欲望をかきたてる時代に、しかもこの東京で、月一万では足りまい。 「だったらバイトをやりなさい」などと知ったことを言うのもいるだろうが、彼女らの学校ではバイトを禁じている。コッソリとやっているのもいたりはするが、彼女らの学校は勉強も忙しいから、バイトの時間を取る暇もない。 「財布に百円もない時だってあります。そんな時は千円だって、すごく嬉しいですよ」  ブルセラは現金をすぐにもらえるのだ。  インタビューのあと、三人を連れてメシを食いに行った。我々だったら、普通に打ち合わせなどで食っている程度のものだが、「おいしい、おいしい」と喜んでくれ、「ありがとうございました」なんて大変礼儀正しくもあって、報道されているほど、彼女らの金銭感覚が狂っているとも、常識がないとも思えない。彼女らのように非常に論理的に話をできる子たちでは、下着でも体でも簡単に商品化する女子高生という記事や番組が作りにくいから、マスコミからは必ずしも好まれないのだろう。  我々の世代に比べれば、彼女らの世代の性観念は確かに変化したとは思うし、事実、三人もしっかり下半身の課外活動をやっている。下着を売ることにそうはためらいがないこともその延長線上にあったりするのかもしれないが、古い世代に入りかけている私も、パンティを千五百円で売ることが、そんなに悪いことだとはどうしても思えないのである。  彼女らがこれまでに制服や下着を売って得たお金は三人合わせても十万程度だ。これに比べれば、歌手としての実績も役者としての実績もほとんどなく、単なるCMモデルでしかない宮沢りえなる小娘のマンコの毛を「きれいだ」「ゲイジュツだ」と騒ぎたてて、数千万も儲けさせたこの世の中の方がよっぽど狂っちゃいないか。  私が話した三人がブルセラ女子高生の代表とは思わないが、現にこのような女子高生がいることはまた否定しがたい事実であって、少なくとも彼女らを批判する言葉を私は持たず、批判する人間に対しては、彼女ら側に立って弁護してやる。  ただ、高校生じゃなくなったら価値がなくなってしまうかのような焦りを彼女らの言葉の端々に感じたことが少々気になった。 「下着を売るのも、お金のためというよりも、高校生である今のうちにできることをしておきたいという気持ちからかもしれない」 「女子大生になったらオバサンですよ」  つまり彼女らは時限的なものでしかない女子高生という価値を消費しておきたいのだ。反省すべきは女子高生でなく、大人になればなるほど夢も希望もなくなる、とりわけ女性の価値は若さでしかないと思わせているこの社会であるんじゃないか。  これだけ女子高生を弁護したんだからさ、五千円で裸になってくれる女子高生がいてもいいんじゃないか。ただし交通費がかからない東京近郊に限る。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:彼女らのうち二人は有名女子大学に、一人は医大に入った。世の中甘い。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:彼女らの中の一人と先日話したのだが、「女子大生になったらオバサン」と言っていたことなどすっかり忘れているかのようで、「私の青春、これからよ」みたいなことを言っていた。これまた健全である。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:これを書いた頃は、売春に対しての考えを明確に言語化できていなかったのだが、今は「高校生が売春して何が悪い」とも思っている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 16 「裸の触れ合い」しつつ尻についても考える[#「16 「裸の触れ合い」しつつ尻についても考える」はゴシック体]  十一月二十一日、和光大で行なわれたドッグレッグスの興行のあと、「ゴーマニズム宣言」が大爆発の小林よしのり氏と話をする機会があった。小林氏は、この連載を読んでくれていて、「あれは面白い。もっとどんどんやるべし」とゴーマンかましてくれたのだが、何を隠そう、これが最終回である。  この連載の終了とともに、六月から私が店員を務めてきたガロショップ「タコシェ」も十二月二十六日を最後に閉店することとなった。これまで西早稲田で営業してきたが、現在の建物は取り壊しになり、このあと下北沢に移転する予定だった。しかし、受け入れ先の会社の経営不振によって話は白紙に戻り、この先どうなるかわからない状態だ。これまで経営母体となってきた青林堂の親会社ツァイトも、この半年間で、手間ばかりかかって利益を生む可能性が全くないことを悟って、この機会に経営から離れることとなってしまい、このままタコシェは消滅する可能性もある。  というわけで、最終回は、タコシェでの「裸の触れ合い」だ。  先日、「アタシ、松沢さんと裸で知り合いたいんですぅ」という客がタコシェに来たと、店員から報告があり、某月某日の夜、彼女に裸で来店してもらった。今回のことは、彼女の友人数名以外誰も知らず、恋人にも話していないというので、ええ乳しておる二十一歳ということ以外は一切秘密である。これは賢明な判断だ。金井紀子のあとにも、すっかり本人はその気になっているというのに、付き合っている男が反対して、実現に至らなかったケースがあったのだ。  彼女は私の原稿を読んで、「若いうちに、裸で知り合いたい」と思い立ったのだそうだ。「若いうちに、きれいなマン毛を撮っておきたい」というタレントのようなものである。  私は全裸の彼女に店内一周を命じた。家やホテルの風呂などと違って、裸があるはずのない場での裸は新鮮である。SMの屋外露出プレイにも似ていて、妙にいやらしい。  しかし、季節はもはや冬、一通り裸で触れ合ったところで、寒さに耐えられずに服をさっさと着た。やっぱり裸のあとで服を着るといやらしいっす。  そこで今回は新たな試みをしてみることになった。一体どこまで脱ぐといやらしくなくなるのか、いやらしさの境界線を探してみることにしたのだ。  胸だけをはだけさせたり、下着をチラリと見せさせたり、大股びらきさせたり、といろいろやってみた結果、私が一番興奮するポーズは、手をテーブルについてスカートをめくり、パンストとパンティを尻のふくらみの下までおろし、ケツを突き出すポーズだ。それ以上パンツを下げると、あんまりいやらしくなくなる。覗くと尻の穴やマンコが見えるか見えないかのあたりに、私にとってのいやらしさの境界線があった(カメラの電池が切れて、これを撮影できなかったのが無念である)。  私は尻より乳の方が好きだと思い込んできたが、こうしてみると尻も捨て難い。尻の下には性器があるとの想像が欲望をかきたてる。それを晒してしまったら元も子もないが、きわどいところでそれを見せない。これがいいのだ。  そして、これは私の原体験にも深く関わっていて、これについては以前書いた原稿があるので、ここに再録してみる。  女性の尻と乳とどちらかを選べと迫られれば、迷わず私は乳を取る。乳房、乳輪、乳首といった乳の各部位において、触ってよし、つまんでよし、揉んでよし、なめてよし、吸ってよし、はさんでよしの弄び方がある乳に比べると、どうしたって尻は劣る。尻は肛門以外にメリハリがなく、個性にも乏しい。使用法にしても、肛門に口をつけて大便を口内発射してもらうことを快楽に転じる特殊能力のある人以外は、せいぜい顔の上に尻を押し付けてもらって窒息しそうになるというダイナミックな使用法がある程度だし、こうしてもらったところで、興奮できる男はやっぱり特殊であって、多くの男の気持ちは性器に向ってしまうこととなろう。  なにより男女の差がなさすぎるのが決定的だ。女性の乳は、女性ならではの膨らみと柔らかさを持ち、男にとってはホルモン注射や手術をしなければ決して得られないものである。相撲取り的な体型ならばある程度の膨らみや柔らかさがあるが、やっぱり女性のものとは違う。得られないものは欲しくなるのが人情だ。しかし、一方の尻は、骨格や脂肪のつき方にある程度の差はあるものの、やせぎすの女の尻に比べれば私の尻の方がよっぽどまろやかで肌理細かいように、あえて異性に求めるほどのものではない。事実、女性で男の尻に性的魅力を感じるのも多い。  しかし、私にはどうしてもひっかかることがある。私がやった最も古いセンズリの記憶は小学二年生の時のものである。この記憶とて、いつもと違う状況下でしたから覚えているだけで、この時が初センズリというわけではなく、その時点で既に日常化していたことは間違いない。  セックスなるものをして子供が出来るということを知ったのが小学校五年のことで、チンチンをこすって気持ちのよくなるアレが、セックスにも関連するオナニーというものであることを知ったのはさらにそのあとだったから、それまでのセンズリの対象は相当あいまいなものだった。既に異性にまつわる何かではあったが、セックスをするところを思い浮かべられるわけもなく、男と同様に小便をする場所としてしか認知していなかったマンコもさほど魅力ある場所ではなかった。  結果、具体的なものとしては、街で見かけたミニスカート姿だったり、テレビの歌謡番組で踊るエッチな格好をしたダンサーだったり、少年漫画の、たわいもないエッチ・シーンだったりした。しかし、こういった具体的なネタを使うよりも、その年齢で考えられる最もいやらしいことを想像して興奮することの方がずっと多かったと思う。  これも小学二年の頃だが、学校から帰る道すがら、目の前を歩く女性(スカートめくりはしたし、ほのかな恋心を抱いたりもしたが、同世代の女の子に性的な魅力を感じることはなく、性的欲望は高校生以上のいっちょまえの女に向っていた)の後姿を見ながら、「服が透けて見える望遠鏡があればいいね」と私は友達に言ったことがある。  今考えると、なんつう小学生かと思うが、ガキなんてこんなものだ。  こういった望遠鏡で道ゆく女の裸を見る、透明人間になって若い娘のいる家庭に忍び込んで一緒に風呂に入るといったようなことを妄想してセンズっていたというわけだ。  そういった妄想の中で、私がこよなく愛したものがある。それは、女をさらってきて、板にくり抜かれた穴から裸の尻を出させるというものだ。しかも、ひとつではなく、五個、十個と並べる。今の私なら、ケツの下で、しとどに濡れた花芯にチンポを次々に入れる想像をしてしまうところだが、まだ純粋無垢だった当時の私は、その光景を思うだけで極上の興奮を得られた。  そして私はこのイメージを最も多用した。なぜか乳房ではなく、裸の尻だけでよかった。あの頃の私に、乳房と尻とどっちが好きかと問えば、たぶん「尻!」と答えたと思う。  今から五、六年前のことだが、ある女性とオナニーの話をしている時に、このことを久々に思い出し、その子に話してみたら、彼女は驚いた表情を浮かべた。彼女も小学生の頃、穴から出た女の尻のイメージでオナニーをしていたというのだ。  女性である彼女が、自らが尻を出すのではなく、別の大人の女が尻を出すイメージを使用していたことは説明できる。往々にして、女が男を欲情させるという図式で性的欲望が作られるこの社会では、女の子が性をより客観的にとらえられるようになるまでのモヤモヤした期間には、このような情報の中で性的なものを形成していくこととなり、女の子が同性に性的欲望を向けることは珍しくない。事実、小中学生の頃、同性のヌード写真に欲望を抱いたという女性は多い。  しかし、奇妙なのは、彼女も私もどうして乳房でなく、尻だったのかだ。確かフロイトは、乳を飲むために乳首をくわえた時に初めて性欲を抱くとのことを言っていたと記憶するが、だとすると、やはり穴から出すのは乳房であるべきだ。  まず考えられるのは、性器を明確に認識できなかったため、尻がその代用となったのではないかということだ。女性は胸よりも、性器に対して、より羞恥心を抱く(民族によって違ったりもするようだが)。当時は、あちこちで母親が胸を出して赤ん坊に乳を飲ませている光景を目にしたものだ。老婆が上半身裸で夕涼みをしていたことだってあった。あるいは、母と一緒に風呂に入る時、母がタオルで胸部ではなく陰部を隠したりするところを見るともなく見る。幼稚園児の女の子が泥遊びをする時だって、上半身は裸になってもパンツははいていたりする。  こういったところから、どうやら上半身ではなく、下半身にこそ秘密があるらしきことを悟る。しかし、女性器の真実は隠されたままだから、その秘密を尻に求める。女が恥ずかしがっているのは尻だと思うわけだ。その後、下半身は尿道や膣、臀部などに分類されるようになり、性的なものは膣が請け負うこととなって、尻は性器の代用としての機能を終えた。こう考えると、一応筋は通る。  しかし、ことによると、もっと別の理由があるのではないかとの疑惑を拭えずにいる。というのも、これほどわかりやすい話であるならば、誰もがガキの頃には、尻へ欲望を向けていいはずだ。山田五郎と話をしていて、穴尻オナニーの過去を告白したら、「それは珍しい」と言われてしまった。確かに、前出の女性以外、尻へ欲望を向け、やがてそれが解消された体験を持つ人に私は会ったことがない。  たまたま私とその女性が、性器と尻の分化の前に性的成熟を成し遂げたために、このようなことが起きただけなのだろうか。あるいはこうも考えられる。私が欲しかったのは尻ではなく、女性が最も無防備、無抵抗になった状態そのものだったのではないか。さらってきた女性という点と、単に尻を晒すだけでなく、穴から尻だけを出す点がミソである。女性たちは、小学生の私が何をしようとしているのかさえ見えないのだ。穴の開いた板は、拘束衣であり、目隠しでもある。小学生の私、恐るべし。この場合、より無防備であるためには、後ろをこちらに向けていることが肝要である。  さらには、こうも考えている。尻よりも乳房に重きが置かれるこの社会で、私の欲望は社会的に変容させられてしまっただけで、生来のものか、幼児期の体験によるものなのかはわからぬが、私にとっての尻は、本来乳房以上に大きな性的欲望の装置だったりするのではないか。というのも、豊かな乳房よりもでかい尻に私は母性を感じる。山田五郎によれば、これも少数派に属するようなのだ。当然のことながら、マザコンに限らず、母親像とセックスの対象は密接に結び付いているのだから、母性の象徴が尻であることと、穴尻オナニーとは無関係ではないのかもしれない。  かくなる上は、女を何人か雇って、実際に穴から尻を出させてみると何かわかるかもしれないと考えたりもするが、こうして欲望が喚起されたところで、それは私の根源的な性がなせるものであるのか、小学生の時のセンズリ原体験の再現でしかないのか、単に下からチンポを入れたいとの単純な欲望なのかを結論づけることはできまい。  今の私は断固尻より乳房が好きではあるのだが、穴尻オナニーについて考察し始めてからというもの、尻には、まだまだ何かが隠されているような気がして仕方がない。(「ビザール・マガジン」一九九二年十一月号より)  性器がその下に隠れていることを知っている現在の私が着衣のまま尻を剥き出しにすることにいやらしさを感じるのと、性器のことなど知らぬ小学生の私が穴から尻を出させることを妄想して興奮していたこととは、似て非なるものかもしれないのだが、触ったり吸ったりすることをせずに、純粋な鑑賞物として楽しむ分には、露出した尻に魅力を感じることを発見できたのは大きい。ヌード写真だって、こういったポーズはいくらでもあって、すべて晒された尻ではダメだが、中途半端に下着を下ろしたポーズに欲情する傾向はあった。ただ、いざセンズリここうとする場合は、妄想の中で、純粋な鑑賞物としてでなく、触ったり吸ったりする対象としての乳を求めてしまうので、やっぱり乳の方がええなあということになってしまう。  今回は、触る対象でなく、見る対象としてのみを模索したため、このことがはっきりと見極められたのかもしれない。  その意味に関しては、まだまだやっぱり判然としてないところもあるんだが、ともあれ私は彼女のケツを見て、ガッハハハハと大声をあげて喜んだ。  そして、彼女もこのポーズが一番恥ずかしいと言う。尻は無防備な場所だから、そこを晒すことが恥ずかしいのだろうか。 「違いますよ。松沢さんが、ウヒョウヒョ喜ぶから恥ずかしくなるんですよ」と彼女。  いやらしさを込めた視線を送ると、途端にあちらも恥ずかしくなり、あちらが恥ずかしがると、こちらがまたいやらしさを増幅させる。こうして、いやらしさと恥ずかしさのキャッチボールで欲情が喚起されていくというのが、今回の発見だ。  その発見のお礼にチンポをしゃぶらせてあげようかと思ったが、彼女はフェラチオが嫌いだという。 「なにぃ、オレのチンポが受けられないのか」と怒鳴ろうかとも思ったが、大人げないのでやめた。  さて、エロ探究は、今後、他誌で展開していくので、青春の思い出に裸を見られたい、ケツを出して恥ずかしい思いをしたい娘さんは、引続き申し出ていただきたい。「あなたのお尻を松沢に見せてくれませんか」という連載をやらせていただける雑誌も申し出ていただきたい。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:ここでは、女性が女性ヌードなどに欲情するのは、男社会の情報によるためであるかのように書いているが、どうもそれだけではないらしい。女性はことごとくレズビアンとして性の体験を開始するとの仮説で、この辺の意味を解説しようと現在鋭意研究中。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:知り合いから「読んでいるよ」と言われることはあっても、それ以外の反響がほとんどなかったこの連載だったが、最後の最後で、小林よしのり氏に激励されて本当に嬉しく、連載を降りることにしたのを少し後悔した。以前は、反響などなくとも、読者がまるでいなくてさえも、そのことでやる気をなくしたりするようなことはなかったが、この連載を始めた頃からすっかり人間が弱くなり、自分への自信も喪失して、誰ひとり読んでいないんじゃないか、誰ひとり自分が書くことを面白がっていないんじゃないか、誰ひとり自分という物書きを必要としていないんじゃないかと思っては恐怖するようになった。この辺りの経緯と、その苦しみや不安については、フロッピー本『Q2のある素敵な暮らし』とミニコミ「ショートカット」第24号に書いてあるので、興味ある方は読んでいただきたい(後者は既に入手不能だが)。その後、ほぼ立ち直り、そもそも自分はその程度の物書きでしかないことを受け入れられるようになり、その程度の物書きでしかない自分に諦めがついて、着々店員への道を進みつつあるというわけだ。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:結局タコシェは、高円寺の中古レコード店マニュアル・オブ・エラーズの敷地に居候させてもらえることとなり、翌年(一九九四年)二月から営業を再開した。そして、同年十一月二十七日、中野ブロードウェイに移転、いよいよ本格的に店員で食って行く予定である。 追記四[#「追記四」はゴシック体]:その後、某女子大生と「裸の触れ合い第四弾」を実施した(これについては、原稿にしていないままである)。 文庫版追記一[#「文庫版追記一」はゴシック体]:小林よしのり氏とはその後論敵となった。詳しくは『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス)参照のこと。小林氏は「ゴーマニズム宣言」の欄外でも私の原稿を誉めたことがあったが、単行本では削除。小林氏らしい。 文庫版追記二[#「文庫版追記二」はゴシック体]:『Q2のある素敵な暮らし』は絶版。 文庫版追記三[#「文庫版追記三」はゴシック体]:店員として食っていく計画は挫折。現在タコシェの運営にはほとんど関わっていない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第2章 正しいバイブレーターの使い方[#「第2章 正しいバイブレーターの使い方」はゴシック体] 1 女性とバイブの秘めたる関係[#「1 女性とバイブの秘めたる関係」はゴシック体]  多くの人が「K・Yバイブレーター事件」について聞いたことがあることだろう。もう十年以上前に流れた噂で、アイドル歌手K・Yのバッグが空港の荷物検査に引っ掛かり、中を開けたらバイブが出てきたというものだ。  その噂に対して、ある雑誌に「他のアイドルはセックスをしまくっているのに、Yちゃんはバイブで我慢しているのだから偉い」といった主旨の、K・Yファンと思われる読者からの投稿が出ていた。実に正しい指摘であるし、ファンというのはなんと有り難い存在なのかと妙に感心した覚えがある。  X線を通したバイブはピストルのようにも見えかねず、とすればチェックされて当然だし、K・Yは友だちがいないとの情報もあったから、いかにもあり得そうな噂だったが、いくらバイブ好きだとしても、わざわざ旅行に行くのにバイブを持ち歩きはしないんじゃないか。持ち歩くとしたってせいぜいローターのようなものだろう。  それよりなにより、当時のウブな私は、バイブを常用する女性がいるとは思えず、そんなもん、エロ本やエロ小説、エロ写真の中にしかいないと固く信じていて、「K・Yバイブレーター事件」もよくある根拠のない噂に過ぎないと結論づけていた。  ビニ本、裏本を買いにアダルト・ショップに行った際、バイブを見たことは何度もあったが(何度もアダルト・ショップに行くほど私はビニ本、裏本の類いが好きであった)、直接手にしたことはなく、興味さえさほどなかった。バイブレーターなんて、男が作り上げた幻想の産物だとしか思えなかったのだ(現にそのように書いている人もいる)。大人のオモチャと言うが如く、チャチな作りに決まっていて、あれでアンアン悶えるようなチャチなマンコの女などいやしない、そりゃあ、チンポの方が格段にいいに決まっている。アダルト・ビデオにバイブが頻繁に登場するようになってさえ、この思い込みは変わらず、実は最近までこれは続いていた。  一年半ほど前、取材でバイブについて調べる機会があった。その結果、私はとんでもない誤解をしていたことをようやっと知ることになった。  周辺の女性たちに聞いてみたところ、バイブ使用者が少なくなかったのだ。全員、セックスの前戯として使っていたのだが、うち二名は、それがきっかけになって、オナニー時にも使っていることが判明した。彼女らには、「絶対、だれにも言わない」という確約をした上で語ってもらったのだが(私は約束通り、それらの告白を墓場まで持っていくつもりだ)、恐らく、これ以外にも、毎夜グイングインさせているのに、私には告白しなかったのがいたに違いない。  これほどバイブレーターを使った体験がある女性が身近にいること自体にまずは驚き、そして彼女らの感想にまた驚いた。全員が全員、バイブを非常に好意的に評価していたのだ。 「物理的快楽としては、男の人のアレなんて比較にならない。セックスではいけないけど、バイブなら確実にイケる」「痒いところに手が届くってカンジ」「指でオナニーするよりも、ずっと達するのが早い」「初めて達したのは、彼が使ったバイブによってだった」「あまりに気持ちよくてオシッコを漏らしたことがある」などとおっしゃるのだ。  彼女らは決して特殊な立場にあったり、特殊な性癖を持っているわけではない(彼女らとセックスしたわけじゃないからよくわからないけども)。セックスに対して積極的な関心がある方かもしれないが、性欲過剰というほどでもない(これも推測だけど)。  以前交際していた女性にバイブを買ってあげたら、すっかり虜となって横に自分がいるときでも独りで使っていたと語る男性もいたし、自分の妻に何かプレゼントをしようと思い、「何が欲しいか」と尋ねたら、小声で「バイブ」と答えたという男性もいた。後者の男性は希望通りにバイブをプレゼントしたのだが、二、三度使っただけで壊れてしまったという。  私の周りにいる男や女は私の周りにいることだけで既に特殊との解釈もあろうし、それはそれで正しいようにも思うが、どうやら皆さん言わないだけで、バイブの需要は相当あるらしく、バイブというもの、ことのほか具合がいいものであるらしいのだ。  とするなら、「K・Yバイブレーター事件」は、全然信憑性がないわけではないんじゃなかろうか。また、それが本当であっても、K・Yを特別視するべきではなく、彼女を弁護していたファンはいよいよ正しいってことになるかもしれない。  そして私は、その雑誌の取材で、バイブを買い込んで、またしても誰にも言わないことを条件に、女性たちに試していただくことにした。ことごとく断られるんじゃないかとの予測はいともたやすく裏切られ、数名の女性が協力してくれ、「前から一度試したかったの」と非常に喜んでくれた女性も複数いて、使ってみた感想も概ね好評だった。  その後、それらのバイブはわが家に常備し、希望者には貸し出している(使用の際はコンドームをつけ、使用後はしっかり洗って消毒しているから、病気の心配はない)。通常はこちらから「ねえカノジョ、使ってみない」と誘いかけるのだが、これを聞き付けた知り合いの女性が「私も使ってみたいな」と自ら名乗り出てくれたケースもある。  かつて何度かのバイブ体験をしていた女性には、バイブを使用する光景を見せていただいたりもした。この時は私の視線があったためか、達することはできなかったが、そりゃあもう気持ちがよさそうで、股間ではマン汁タラタラ、こちらもヨダレ、タラタラでさぁ。  バイブに名前をつけてかわいがっている女性、隠し持っていたバイブを親に見つかってしまった女子大生などとも知り合った。みんな、ホントにいろんなことをしているんですねえ。  このようなバイブの実態が次々に明らかになり、墓場まで持っていく秘密も溜まる一方である。もちろん、今後もどこの誰かはバラすわけにはいかないが、これまでに聞いたバイブにまつわる話をこのまま秘匿しておくのはもったいない。それらの体験談やバイブのマーケット、社会背景などをここで公開してみようとの魂胆である。できることなら、K・Yさんにもインタビューしたいものだ。これを見たら連絡ください。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:この連載以降もバイブ経験のある女性やバイブ願望のある女性にたくさん会っている。つい先日は、長らくバイブを使いたく思っていたというSM嬢に会った。彼女はSM嬢になって遂にその願望を達成することができたが、挿入よりもローターでクリトリスを刺激するのが好きだとのことである。彼女もそうなのだが、セックスでオーガズムを得られない女性に、バイブ願望が強い傾向があるようにも思う。「チンポはダメだがバイブなら」ということなんだろうか。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 2 まずはバイブを買いにお店へいこう[#「2 まずはバイブを買いにお店へいこう」はゴシック体]  では、さっそくアダルト・ショップに行ってみることにしよう。店選びには細心の注意が必要である。  アダルト・ショップというのは、客が常連になりにくいタイプの店だ。魚屋や八百屋なら毎日だって行くだろうが、アダルト・ショップに毎日行く人などいない。床屋や寿司屋なら、店の人間と客が会話を交わしたりするだろうが、アダルト・ショップでは、まず言葉を交わさない。客は必要なものをさっさと手に入れて、誰にも見られないように早く店を出たいのだから、店員から話しかけることも、客から話しかけることも、あまりないのである。  ビニ本や裏本が出始めの頃は、アダルト・ショップが重要な販路となっていたため、新作を入手しようと頻繁に店に通う客もいたし(オレだ、オレだ)、どれがいいかの情報を得るために、店員に話しかける客もいたりしたが(これもオレだ)、ビニ本専門店が乱立してからは、そちらに客が流れてしまった。その多くは既に店を閉じているが、ビニ本自体が凋落してしまった今は、ビニ本を買うために足繁くアダルト・ショップに通う人などいまい。  また、かつてはコンドームの売上げが少なくなかった店もあるようだが、エイズ以降、買いにくい商品ではなくなったため、わざわざアダルト・ショップでコンドームを買う人は減っている。SMグッズも同様で、マニアにとっては、中途半端なアダルト・ショップで買うより、やっぱり専門店の方がいい。  とするなら、エロ・グッズの総合店たるアダルト・ショップで買うものといったら、バイブレーター、電動フグ、ダッチワイフといったものとなるが、これらの商品は毎月消費するようなものでなく、半年に一回も買い替えればハードユーザーということになろう。  従って、多くのアダルト・ショップにおいては、やってくる客のほとんどが一見さんかそれに限りなく近い客となる。特に歓楽街にある店では、客が酔っていたりする上に、水商売の女と一緒に来て、三十分後に使用するためのバイブを欲しがっていたりするので、とんでもない値段をつけていても買う客は買う。商品知識がある客など滅多にいないのだから、高いのか安いのかもわからず、ボラれたことさえ一生気づかないだろう。立地条件さえよければこれでもやっていけるのだ。  実は私も歌舞伎町でひどい目に遭ったことがある。最初にバイブを買いに行った時のことだ。なんといってもエロは新宿だと、私と女性編集者は、夜十一時過ぎに歌舞伎町を歩き回った。よく見かけているものなのに、いざ探すと目的のものが見つからないことがよくあるが、ちょうどその時もそんな感じで、それ風の店が視界に入ってこない。やがて大きな看板を出している店を発見、ためらいなく中に入った。人相の悪い店員がいて、イヤな予感はした。ビニ本と並んで大人のオモチャも置いてあるが、商品数がやけに少ない。どれも一万円以上で、えらく高いものだとは思ったが、極上の快楽のためには、このくらいの投資をしなければならないのだろうと納得し、数本を選んで金を払った。  ところが、領収書をくれないのだ。「何かの紙に手書きで書いてくれればいい」と言っているのに、「ないよ」の一言で終わりで、こちらの顔を見ようともしない。腹が立ったが、腹を立てていい相手と悪い相手がいることくらい知っているので、気の弱い私と編集者はすごすごと引き下がった。  数万もの金をどこから捻出するかを話し合いながら駅に向かって歩きだしたら、ちょっと奥まったところに、シャッターを半分下ろしているアダルト・ショップCがあり、無理を言って中に入れてもらった。  店の人に教えてもらって初めて知ったのだが、アダルト・ショップは風営法の適用を受けるため、夜十二時以降の営業は許されない。もう時間があまりなく、ざっと店内を見回したら、さっきの店で買ったのと同じ商品が半額以下で売っているではないか。しかも、商品が数倍はある。しまったあ、と思ったが後の祭り、返品できる店とできない店が世の中にはあることも私は知っている。  大人のオモチャには定価がなく、パッケージにも値段は印刷されておらず、売値は店によって違う。その後、いくつかの店を見たが、やはり値段はマチマチで、このCという店は最も安い部類に入る。良心的な値段設定や場所柄のためか、少ないながら、この店には常連さんもいる。常連さんというのは、仕事でバイブを使う類いの風俗関係者やコレクターである。どんなジャンルにもコレクターはいるのだ。 「長らく生き延びている店は地道なところが多いですよ」とのことで、これまたどんなジャンルでも同じだろう。  Cがオープンしたのは一九八一年。その頃の歌舞伎町には今の数倍のアダルト・ショップがあった。しかし、当時のビニ本ブームに乗って、ビニ本専門店に様変わりしたり、続くビデオの隆盛でビデオ専門店になってしまったところが多く、現在は正規のアダルト・ショップは五軒程度だそうだ。 「ビニ本ブームの頃は儲かりましたね。でも、結局、裏本の方が儲かるから、どんどんそちらに手を出すようになって、お客もそういう店に集まる。それでうちはビニ本から手を引いたんですよ」  裏物は仕入れの数倍から十倍程度の値段で売れたそうだから、相当おいしい商売だったのだろうが、やがて摘発を受け、また、ブームも去って、そういった店のほとんどは潰れてしまった。  一九八五年の風営法改悪によって、アダルト・ショップも様々な規制を受けることとなり、違法行為をすると営業停止となって、二度と営業できなくなるから、現在残っているアダルト・ショップは、裏に手を出さない地道な店か、無許可営業のモグリか、どちらかだろう。その後、最初にボラれた店を探しに行ったことがあるのだが、どうしても見つからなかった。後で考えると、あの店は恐らく無許可営業で、主たる商品は裏物だったに違いない。表にあった大人のオモチャは飾りで、まんまと飾りを買わされたってわけだ。  観光地などでは今でも法外な値段をつけているところがある。地道ではあるのかもしれないが、必ずしも良心的とは言えない。地道に法外な店もあるってことだ。店はやはりしっかりと選んだ方がいい。  先日、久々にCに行ってみたが、この業界も不景気だそうで、店の人の表情が冴えない。不景気になると、皆、オナニーやセックスでもやるしかないんじゃないかと思っていたが、そういうもんでもないらしい。この場所は特に歌舞伎町という場の景気、不景気に大きく左右されるという事情があるんだろうし、道具を使ったオナニーやセックスは心にゆとりのある時の贅沢ってことなんだろう。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:アダルト・ショップにはその後全然行ってないので、現在どのような状況になっているかよくわからない。気になる人は自分で行ってみましょう。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:今では、この原稿を書いた頃より、ずっとカジュアルな存在になっており、バイブ使用者の数も激増している。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 3 アダルト・ショップのお客さまとは?[#「3 アダルト・ショップのお客さまとは?」はゴシック体]  では今回も、アダルト・ショップの観察を続けてみよう。  アダルト・ショップCの場合は、歌舞伎町という場所柄、非常に客層が広いのだが、二十代から三十代のサラリーマンの集団が最も目立つ。 「うちあたりだと、半分以上はひやかしだよ。酔っ払って集団で来るのはまずひやかしだな。でも、ひやかしも歓迎している。皆のいるところでは買わなくても、あとから一人で出直してくるのもいるからね」  客には高年齢も多く、上は八十代くらいの老人までが来るそうだ。年寄りの場合は、役に立たなくなった自分のものの代わりという意味ももちろんあるが、勃起したペニスに装着するリングなどを買って行く老人もいて、その場合は、現役でセックスを楽しんでいると思われる。 「昔は、歳とったり病気のために不能になった人はバイブで女性を感じさせるしかなかったんだけど、最近は立たないペニスにかぶせものをして、よりリアルなセックス感を味わえる商品が増えているね。骨折した時のギプスみたいなものだよ。射精はしなくとも、女性が感じるところを見て自分も満足するんだろうね」  老化や事故、病気などによって使い物にならなくなったチンポの代わりに器具を使う人々。あまり指摘されることはないが、こういった人々がこのマーケットの少なからぬ部分を支えている。彼らは、チンポビンビンの人間がちょっとした刺激としてバイブを使ったりするのとは違い、自分の分身として使用するから、より真剣に商品を選び、いろいろ試すことにもなる。アダルト・ショップでは珍しい存在である常連さんには老人が多いのは、単なるコレクターというよりも、器具によって快楽を求めざるを得ない事情も関わっていそうだ。  一方、ここ数年増加しているのが若いカップルである。 「以前からカップルの客はいたけど、だいたいは水商売の女性と客とか、社長と愛人といった様子の男女ばかりだったのが、今は恋人同士や夫婦といったカップルがやってくる。普通の服屋か小物の店を覗くような気楽さだね。以前よりもこういう店に入る抵抗感が薄らいでいるのは、たぶん、アダルトビデオの影響じゃないかな。かわいい女の子が平気でバイブを使ってたりするでしょ。ああいうのを二人で見ていて、今度こういうのをやってみようかということになるんじゃないの」  面白いのは、買う段になると、女性が主導権を握ることだ。自分の体に入るものだからだろう。また、女性ひとりで来るケースも随分増えている。 「昔は女性一人でこういうところに入るなんていうのはよっぽど勇気が必要だった。この辺だと、ストリップとかSMとかの風俗関係の女の子が多いから、仕事で使うのに買いに来るというのはあったけど、最近は素人の女性も来るよ。風俗の子か素人かの区別くらいはつくからね。離婚が増えているのと関係があるかもな」  老人社会と離婚の増加。まさかこんなところから世の中が見えて来るとは思わなかった。  十年以上前に、アダルト・ショップで働いていた知り合いによれば、彼が働いていた数年間で、女性一人でやってきてバイブを買ったケースはたったの一回しかなかったと言っていたから、時代は確実に変わってきている。  といった話をしている間に、恐らく七十代の恰幅のいい老人が店に入ってきた。常連さんの一人なのだろう、店長に気安く声を掛ける。 「久しぶり。なんかいいものは入ってるかな。生きてる証を買わないとね」  もはや妙な照れなどはない。爽快な印象さえある。まだ現役組のようで、リングの類も見ている。すると、今度は若いカップルが入ってきた。つい今しがた話していたばかりの光景が目の前に続々繰り広げられているのだ。  男も女もまだ二十歳そこそこ、周りも気にせず、商品を見始めた。カップルでこういうものを見ている姿は、ついつい生々しい想像をかきたてる。確かに女性の方が積極的に手に取ってしげしげと眺めている。続いてやってきたのは、三十代の男性とこの恋人と思われる二十代前半の女性。これがもう無茶苦茶かわいい。ちっくしょー、いいなあ、あの女にバイブを入れるのかあ。入れるのはバイブだけじゃないんだろうなあ。 「うちだと売上げの三分の二はオモチャ、残りが下着や本、SM用品、盗聴カセットなどの類。オモチャは、圧倒的に女性用のバイブの比率が高い。男性用のダッチワイフや電動の女性器は、一人暮しの老人や、たぶん単身赴任らしきサラリーマンだね」  ここでも大人のオモチャは社会問題にリンクしている。一時間ほど観察しているだけで、今の社会が抱える様々な問題や性のあり方が透けて見えて来る。店によってはひやかし客をいやがり、特に男女のグループで押しかけてワーワー、キャーキャーと騒ぐと、他の客がいづらくなるので追い出されることもあるかと思うが、一度覗いてみる価値はあるし、バイブの一本や二本は買ってみる価値があろう。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:ちゃんと取材できたわけじゃないので、ここにははっきり書いてないが、大人のオモチャには障害者ユーザーもいる。最近、ようやっと日本でも、障害者プロレス「ドッグレッグス」あたりをきっかけに、今までのように同情、哀れみだけではなく、障害者の問題を語る機運が出て来ている。障害者のセックスも無視してはいられぬテーマだろう。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 4 通信販売でバイブは売れるのか?[#「4 通信販売でバイブは売れるのか?」はゴシック体]  女性たちの堂々とした様にはしばしば圧倒される。コンドーム専門店で、あっけらかんとコンドームを買っていく女性たちを見ると、頼もしく思いながらも、こっちの股間は縮こまるってもんだ。股間が縮こまるといえば、レディースコミックやティーン誌。いろいろなところで、レディースコミックの過激な性描写が取り上げられているが、皆さんも、是非一度手にしてみるとよい。ここまでやるかってな内容である。  レディースコミックにおいて、バイブはよく登場するアイテムだ。ダンナの友人にバイブ突っ込まれたり、レズのおねえさんにバイブ突っ込まれたり、Sっ気のある恋人にバイブ突っ込まれたりで、もータイヘン。  レディースコミックでバイブが取り上げられているのは、マンガの小道具としてだけではない。読者プレゼントに使われたりもしているし、Q2やテレクラの広告に混じって、アダルトグッズばかりを扱った通販の広告が出ている雑誌もある。中には、自らアダルトグッズの誌上販売をやっている編集部まである。  派手な動きをすると当局から目をつけられるということなのか、エロ本やアダルト・ショップは、あまりメディアに出ようとはしなかったりする。レディースコミックでも事情は同じらしく、名前を出さないという条件で、誌上販売をやっているレディースコミックの編集部に話を聞くことができた。 「アダルトグッズを販売している知り合いに頼まれて始めたんですが、それほど注文は来ないですよ。月に十数件かなあ。主婦が大半ですね」  若い娘さんからの注文が殺到していて、売上げ数百万などという数字を期待していた私としては拍子抜けである。その雑誌の部数は十万部とのことで、これは水増しした数字なのだろうが、実数三万部としたって注文が十数件とは少なすぎる。もしかすると、ここでもあまり派手な数字を言うと何かと差し障りがあるといった事情が絡んでいたりするんじゃないかと疑ってみたりもしたが、そんな事情があるとは思えない。どうせなら大袈裟なことを言った方が売上げ増加にもつながろうから、この数字に嘘はあるまい。しかし、この程度の売上げでは誌上販売をやるメリットはなかろう。 「注文は、そのまま業者の方に回しているだけですから手間はかかりませんし、うちは広告費がいらないからやってられますが、金を払って広告を出していたら商売にはならないでしょう。金を払って広告を出している業者さんはだいたい問屋さんみたいです。問屋価格でようやく採算が合うというところじゃないですか」  弱った。以前、ある業者に「今は廃刊になった某有名女性雑誌に広告を出したら、注文が殺到して一回の広告で五百万円の売上げがあった。たぶん何人かが集まって、共同で買うんだろうけど、同じバイブを何本も頼んでくる主婦もいた」という話を聞いていたので、レディースコミックでもそのようなことになっているのではないかと予測していたのに、これでは話が展開しない。あの業者の話が嘘とも思えないので、雑誌の部数の違いか、時代的な事情によるものなのだろう。当時はそういった広告は他になく、また、女性がアダルト・ショップに行くことなんて考えられなかったから、バイブを使いたい潜在的なバイブ消費者がすべてその広告に殺到したということだ。よくわからんが、きっとそうだ。  さらにレディースコミックの編集者に詳しく話を聞くと、読者がバイブに興味がないというわけでもない。 「SM用品やエッチ下着も販売してますが、十数件の注文のほとんどはバイブです。昔から使いたい女性はいたし、今でもいるということだとは思いますが、バイブに対する全体的な意識はここ数年で変わってきているとは思いますよ。ただ、自分で買ってまで使ってみたいというところまでは至ってはいないんでしょうね。女性はなかなかお金を使わないですから」  だから注文者の中には男の名前も混じっている。恥ずかしくて夫や恋人に頼むケースもなくはないのだろうが、レディースコミックを買っている女性が、顔がわかるわけでもない通販の注文で今更恥ずかしがることもなかろう。エロ本として男がレディースコミックを買っているケースも多いと言われるが、そういった読者からの注文ということか。 「うちに関しては、男の読者はあまりいないと思いますよ。それよりも、妻や恋人が買ってきたレディースコミックをペラペラ見ているうちに、男が欲しくなって注文するとか、一緒に読んでいて、二人で試してみようということになって、男が注文するということでしょう」  ところが、これがプレゼントとなると事情が違ってくる。この編集部では誌上販売をやっていることもあって、バイブをプレゼントすることはないのだが、他の編集部によれば、バイブやアダルトビデオなどのプレゼントは、他のものより格段と人気があって、それこそ応募が殺到するというのだ。ああ、期待していた話が出て来てよかった。  セックスに金を使うのはいつも男だった。セックスをする際にかかるホテル代などの経費はもちろん男持ちである上に、女はメシをおごってもらったり、プレゼントをもらったりするし、金をもらうことさえある。セックスに金を使う習慣のない女性たちは、興味があったとしても、バイブより服や化粧品でも買った方がいいと思っているのだろう。そうすることで男に媚びてセックスをすることができ、金品を受け取れるのだから、その選択は決して間違ってはいない。売春婦が自らホテル代を出したりしないのと同じことだ。しかし、気持ちのいいことが嫌いなはずもなく、タダなら使いたいというのが本音なのである。  最近テレビなどでも取り上げられている女性向けのエロ雑誌「マリリン」(ビデオ出版)ではもっと露骨だ。通販の広告が掲載されているのはもちろんのこと、バイブ使用法の懇切丁寧な特集まで組まれている。このように、アダルトビデオや雑誌などによって、女性たちはバイブの知識を増やし、「そんなにいいものなら、私も一度は使ってみたい」と、バイブへの興味をかきたてられつつあることは間違いない。  これらの現象をけしからんなどと言うつもりはまるでない。これがけしからんなら、男はその数倍けしからんことを営々とやり続けてきた。男に媚びず、どんどん女性も気持ちのいいことを追求すればよい。こっちの股間は縮こまったりするけど。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:通販がさほど注文がないものなのか、あるいは注文殺到なのかについては諸説あって、正確なところがどうもわからない。広告を出している業者は大袈裟なことを言いたがるからあまり信用できないので、雑誌に広告がどれだけ出されているかを見るしかない。と、ここで何誌かを調べてみたら、大人のオモチャの広告が出ていないレディースコミックの方がずっと多い。雑誌の広告規定やイメージの問題で掲載しないケースもあるだろうが、モロの広告が出ている雑誌でも、せいぜい一社二社の広告が出ているだけだ。このことから、注文殺到というようなことはまず考えられそうにない。現段階ではその程度の需要なのだと、ここでは結論づけておこう。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:のちに聞いた話によると、女性たちは堂々と店に買いに行くようになっていて、激増している通販市場は老人層らしい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 5 女にモテたきゃバイブを使おう![#「5 女にモテたきゃバイブを使おう!」はゴシック体]  バイブを持っていると女にモテる。なかなか信じてもらえなかったりもするが、これは本当の話だ。昨年の忘年会の席で、イラストレーター兼ライターの山田ゴメスと、この話になった。山田ゴメスは「男たるもの、家にバイブくらいは常備しておくべきですよね」と言っていた。いい言葉だ。  包み隠さず告白すると、私も彼も「うちにいいバイブあるよ」の決め言葉で女をコマしたことがある。  女性たちはバイブへの関心を高めている。男同様に、性的快楽に貪欲になっているという事情がまずあり、やはりレディースコミックやアダルトビデオによる影響も少なくなかろう。女性でもアダルトビデオくらいは一度や二度は観たことがあったりするものだ。男と一緒にベッドの中で観るということもあるし、女の子たちが集まって観るケースもある。  といったところからすると、メディアによって無理矢理関心を高められているといった方が正確だとの意見もあろうが、どっちにしても結果は同じ、一度試してみたいなどと思っている女性はたくさんいるのだ。しかし、そんなものをわざわざ買いに行く勇気はない。  かといって、「バイブを買ってよ」と夫や恋人にはなかなか言えない。女性が性的快楽に積極的であることを許さない狭量な男はまだまだ多く、こんなことを言うと、「アンタのチンポじゃ満足できないの」と宣言しているようにとられかねないとの気持ちもあろう。  男にしても、自分のチンポに自信がなく、「オレのより、良かったなんて言い出したらどうしよう」などとの不安を抱くのもいる。あるいは逆に自分のチンポに無闇な自信があったりして、そのようなものを使う発想がまるでないのもいる。男側も自発的にバイブを使ってみようとはせず、いつまでたっても女性らはバイブを体験できない。  こうして、女性の中で、バイブを試してみたい気持ちだけが増大する。その隙間に私や山田ゴメスはつけ入ったわけだ。  では女性たちの証言を紹介しよう。  まずは最近知り合ったNさん(推定二十四歳)だ。皆でバイブの話で盛り上がっていた時、彼女はまるでそんなものには興味がないといった顔をしていたが、彼女は何か隠していると睨んだ私は、それから数日後、電話をかけて追及してみた。すると、予想通り、これまでに二種類のバイブを試した経験があることを告白してくれた。  彼女はかわいらしい女性で、どちらかといえば、性的には淡白にも見えるのだが、それでもバイブへの興味があったという。 「以前から試したいとの気持ちはありましたね。ひとつ目はつきあっていた男が持ってきて、ふたつ目はパーティの景品で当ったんです。両方とも、男にしてもらったあと、一人でも試しました。やっぱり気持ちいいですよ。セックスに興味のある女の子なら、多かれ少なかれバイブを試したい気持ちがあるんじゃないですか」  そういうものらしいのだ。彼女の使用したうちのひとつはアヌス用のバイブなのだが、アヌスに使ったのでなく、こちらも膣に挿入した。アヌス用は細身で、比較的振動も緩やかなので、グイングインと激しくうねる膣用よりもこちらの方がいいとの意見も聞く。  男には、激しければ激しいほどいいとの幻想が根強くあって、バイブを強く出し入れしたりするのがいるが、あれは痛いだけという女性が多く、回転数を急激に上げるのも禁物だ。使用する際は気をつけていただきたい。  次は二十三歳のKさんである。スタイル抜群の美人さんである。彼女は女子大生時代に男にバイブをプレゼントしてもらい、以来時々使っている。 「好きよ、バイブ。私、Mっ気があるから、男にやってもらうと、いたぶられているようで感じちゃう。私の場合は、どちらかというと、精神的な快感の方が強いかもしれない」  というわけで彼女はオナニー時にバイブを使ったことはない。男との関係の中でこそバイブが活きてくるというのでなく、彼女はオナニーをしないのだ。かといってオナニーが嫌いなわけではない。複数の男とやりまくっているから、オナニーをする暇がないのである。 「でも、こちらから使ってくれとは言いにくいのが難点よね。男の人のオチンチンの方が最終的にはいいものなんだから、男たちがもっとバイブに寛大になってくれればいいのに」 「男のモノよりずっといい」と言うのもいるが、普通のセックスがイヤになったなどという女性は、私が知る限りはひとりもいないので、バイブを使うのを怖がっている方は安心していただきたい。  ちなみに彼女の使用機種は名作「熊ん子」で、今でも机の中にしまってある。前に書いた、母親にバイブを見つかった女子大生(正確には当時女子大生)というのは彼女のことだ。 「パーティの景品に当たって捨てることもできずに困っていたの、とかって言ってごまかしましたよ(笑)」  最後は二十二歳のHさんだ。 「私、まだ使ったことがないんです。でも、すごくよかったという友だちがいて、一度使ってみたいという気は前々からあったんですよ」  彼女は間接的な知合いで、電話でしか話したことがないのだが、この話をしたあと、さっそく知り合いを介して「熊ん子」を貸してあげた。あとから電話で確認したら、彼女はこう感想を述べてくれた。 「彼に使ってもらったんだけど、セックスの前戯としてはすごく面白いし、セックスでの快感が高まるようにも思う。でも、期待が大きすぎたせいか、バイブそのものは、こんなもんかという感じもあって、オナニーをするのにわざわざ使うというようなものでもないですね。でも、体験できてよかった」  読者の皆さんも、このような女性の気持ちを汲んであげ、恋人や奥さんに一度使ってあげてはどうか。また、「バイブどう?」のひと言で、きれいなおねえちゃんと、一発やらかすこともできるので試していただきたい。  ただし、くれぐれも注意していただきたいのは、すべての女性がバイブに興味があるわけではないことだ。下手に「今晩、バイブしない?」なんて言ったら、ひっぱたかれたり、二度と口をきいてくれないこともあるので、相手は充分に吟味することが肝要である。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:面白おかしく強調している部分がないとは言わないが、女の子たちが積極的にバイブに興味を持っているのは本当なんだってば。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 6 知られざる性具の世界史[#「6 知られざる性具の世界史」はゴシック体]  今回は、張形の歴史を辿ってみよう。  電動ものの元祖とされる「熊ん子」が登場したのは大阪万博の頃である。それ以前からリップスティック状のものはあったのだが、現在のバイブのようなものとしては「熊ん子」が最初のもののようだ。それからまだ二十数年の歴史しかないが、その前から張形は温泉などで売られていて、さらにさかのぼれば古代ギリシアでも張形は使われていた。  古代ギリシアでは象牙、皮製のものが使用され、中には黄金でできたものまであった。また、『聖書』の「エゼキエル書」に「汝はわが汝にあたえし金銀の飾りの品を取り、男の像を造りて、これと姦淫をおこない」とあるのは、金属製の張型を使用した意味だとの説もある。単に男の像を股間に入れ込んだだけとも思えるが、そうだとしたって、このことは遥か古代から張形やそれに類するものが存在していたことを示唆する。サルだってオナニーするのだから、人間がオナニーの道具を考えなかったわけはない。  海岸に流れつく流木や河原の石の中から適当なものを探したり、石斧や石包丁、果物、野菜の類を試しに入れてみたのもいたろうが、人工的にチンチンを型どったモノをオナニーに使うようになる過程は以下のようなものであったに違いない。  チンチンを入れることによって子供ができるのは驚異的な神秘現象であったろう。チンチンやマンコには神が宿っているのか、チンチンを挿入することで神が降臨すると考えるしかない。こうしてチンチンを型どった石や木が奉られるようになり、やがては神に処女を捧げるために、あるいは多産を願って、これら崇拝物を挿入するようになる。それが気持ちよかったりもして、信仰とは関係なく、ついついこれを股間に差し込む女もいただろう。儀式で挿入までがなされなくとも、飾ってあった神器を、独り寝の寂しさに耐えかねた女性が辛抱たまらずマンコに入れ込んだり、神を崇めるあまりにそうしてしまったりもする。そして、そのための張形を作る者も出てくる。このように崇拝物とは独立し、純粋に快楽のための張形が発生したというわけだ。  現在では、そんなものがないかのようなツラをして気取ってみても、ヨーロッパにおいても事情は同じだ。バチカンの非公開の部屋には、性器を描いた壁画があるそうだし(非公開なのに誰が見たのか、あるいは関係者の誰が漏らしたんかいなとの謎はある)、一説によれば、キリスト教の十字架は、マンコにチンポが挿入されたところを表しているともいう。縦の棒がチンポで横の棒はマンコを横から見たものだ。キリストはチンマンに磔になったのである。あまりに面白すぎるので、その信憑性は疑わしくもあるが、中世までは近代ほどキリスト教は禁欲的でなく、魔除や宗教的儀式などに張形は用いられていた。さらには、尼僧までが張形でオナっていたとの記録がある。キリスト教文化においてオナニーは生殖につながらぬ快楽として公にはタブー視されたりもするが、彼女らが使っていたのは、金玉や陰毛までついていたというから、キリスト教もやるもんだ。しかし、これを問題視した僧侶もいて、法王に裁きが委ねられるのだが、法王は、「張形に小さな十字架をつけよ」との温情判決を下したのであった。「張型、ちょっといい話」である。  このように、性欲あるところ、どこにでも張形は生まれ得る。  日本でも太古より張形状のものがあったのだろうし、縄文時代の石棒の類いは、性器崇拝の対象物だったと主張する人もいる。これは論争になっていたりもするので、はっきりしたことは言えないが、オナニーのためだけに用いられる純然たる張形が、室町あたりには大陸から入ってきていたことは間違いない。  そして江戸時代になると、他の文化同様に、張形はわが国独自の発展を遂げる。この発展に寄与したのが大奥の女性たちや参勤交代によって寂しい夜を余儀なくされた大名の妻たちの存在であった。  電動ものが登場するまでの張形には、内部が空洞になっているものがある(今も売っている)。ここに湯に浸した布を入れたり、直接湯を入れたりして張形を温めるのだが、同じ使用法は江戸時代からあり、水牛の角や象牙などでできていたから、事前に張り型そのものを湯で温めることもできた。バイブ使用者の女性は、特に冬場、冷たい感触があることに不満を漏らしたりするが、この方式ならばそれを避けられる。実用的によく考えられているのだ。  大奥の女性や大名の妻が使うものであるから、素材などもおろそかにはできない。金はさすがになかったようだが、象牙、水牛の角、べっこうなどを使い、ほとんど工芸品の域に達している。また、女性ふたりが楽しむ双頭のものまであって、禁欲生活を少しでも楽しく過ごす工夫がなされている。  江戸時代には、有名な四つ目屋など、性具、淫薬を扱う店が繁盛し、小間物屋が煙管などとともに張形を背負って各家を売り歩いた。四つ目屋は何度か幕府の取締りを受けたりもしているが、川柳にも四つ目屋が頻繁に登場するように、四つ目屋の名は当時の大人のオモチャ屋の代名詞的な存在として広く知られていたことがわかる。また、川柳には張型もよく登場する。こういった性具に対する人々の感情は至っておおらかであったようだ。  この一方で、男性用オナニー器具である吾妻形といったものもあったが、そもそも男のオナニーは簡単なものだから、そういったものを使う人は今と同様さほどはいなかったろう。それに、シリコンやゴムのなかった当時では、どう工夫したって気持ちのいい模造女性器は作りようがなく、だったらコンニャクで十分ということにもなる。  従って、やはり性具の王様は張型であり、このような日本の張形は、海外でも注目を浴び、民俗学者が著書で取り上げ、博物館に展示されたほどである。  というわけで、昨今、女性たちの間でバイブへの注目度が高まっているとしたって、性の乱れなどと考えることはない。日本の伝統であり、太古から続く女性たちの営みと寛大に解釈すればよいのだ。これはセックスそのものも同様で、平安時代の貴族なんて、やりまくりのスケベ集団だし、武家社会は別にして、また、明治以降は別にして、一般庶民レベルでは、ずっとセックスを楽しんできた。昭和三十年代くらいまで堂々夜這いが残っていた地域もある。いいなあ、一度、夜這いしてみたいもんだ。昨今の若い娘さんの心の中にはバイブ願望が渦巻いているが、私の心の中には夜這い願望が青筋立てて隆起しているのである。 [#3字下げ]参考資料/酒井潔著『らぶひるたァ』(昭和五年)、中野栄三著『珍具入門』(昭和二十六年)など [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:ここで参考資料に挙げた『らぶひるたァ』の著者は魔術とか悪魔学の研究でもよく知られる人物。『らぶひるたァ』は張型やコンドーム、媚薬といったセックスにまつわる物について書かれたもので、梅原北明による「談奇館随筆」の一冊として出された。『珍具入門』は初版が一九五一年に限定で出され、その後新装となって出たが、これも既に絶版。全編性具についてのものである。著者は江戸研究を最も得意とした人物で、『陰名語彙』という名著もある。このように、昔は、非常に真摯な性風俗の研究書が数多くあって、それに引き換え、昨今溢れ返るセックス情報はあまりに安易、あまりに皮相ではなかろうか。オレが書いてるのもそうだけんども。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 7 幻のバイブレーター工場をさがして[#「7 幻のバイブレーター工場をさがして」はゴシック体] 『大人の玩具』(東京三世社)というムックが出た。バイブを中心に、男性用オナニー・マシーン、媚薬などのアダルト・グッズを取り上げたもので、ヒダヒダからタマキンのシワにまで手が届く有難い一冊だ。全然知らない新製品も出ていたので、また買いだしに行かなきゃな。  しかし、これを読んでもわからないことがある。一体あのようなモノをどこの誰が作っているのかだ。「大手の電器メーカーやおもちゃメーカーがこっそり製造している」などといった噂もあって、ICを使った最近のバイブを見ていると、案外本当だったりするんじゃないかと思えたりもする。大手電器メーカーの近代的大工場で、おねえちゃんたちが一本一本股間に挿入して、厳密な商品テストをしているエロ漫画的な妄想を広げてみたくなる。  この謎を解くために、ある問屋に話を聞きに行った。その結果、この業界の商品は「メーカーが開発・製造した商品を問屋に卸し、問屋が小売に卸し、消費者の手に渡る」といった流通を経るわけではないことがわかった。こういった経路の商品もあるのだが、バイブや電動フグなどの場合は、問屋が実質的なメーカーなのだ。  前出の『大人の玩具』にも、ある問屋がインタビューに答え、商品開発にまつわる苦労話を語っているように、こういった業者が直接商品を開発している。もちろん、問屋の人間が直接工場を持っているのでなく(そういうケースもあるかもしれないが)、完成品に仕上げるのは零細の町工場である。これはただ問屋の指示通り製造するだけで、いわば下請けに当る。  ICなどの部品は専門のメーカーから買うわけで、こういったICのメーカーが一方で電器メーカーやおもちゃメーカーにも卸していたりするために、前記のような噂が出たんじゃなかろうか。あるいは末端の町工場が、どこかの大企業の孫請けの仕事もやっていて、バイブの横で、マジンガーZのおもちゃの組み立てをやっていたりするんじゃないかとも思ったのだが、問屋の人は簡単に否定した。 「ほとんどの工場が夫婦だけだったり、パートのオバチャンを入れても五、六人程度ですから、そんな仕事を請けられるハズがないです」とのことだ。  一部の店では海外から商品を直接輸入していたりもするが、全国ほぼすべてのオモチャ屋の商品は十五社から二十社ばかりある問屋が扱っており、私が行った問屋でも北海道から沖繩まで全国六十から七十の小売店に卸している。いくつかの小売店では複数の問屋が卸していたりもするそうだが、ほとんどの店では問屋の棲み分けができている。この問屋は比較的大きい方だから、そこから推測すると、全国にはざっと千軒くらいの小売があることになる。  そして、個々の問屋が開発して下請けに作らせた商品を、問屋同士でやりとりするため、結局はどの店にも同じような商品が並ぶことになるわけだ。  そうすると、問屋の人が、自社で働くOLの股間に一本一本入れ込んで厳密な商品チェックをしたり、会社の一室に、そのために雇われた娘たちがわんさかいて、日夜バイブを股間に入れて使い具合を確かめ、新製品の開発に余念がないのではないか、なんてことを考えたくなる。  しかし、これも私の妄想の無闇な先走りでしかなく、特別に会社がモニターを雇っていたりはしない。商品開発といっても、個々の社員のアイデアだったり、小売店からの意見を吸い上げたものだったりする程度なのだそうだ。女体を使っての実験をやることがあるにしても、せいぜいが自分の女房やソープのおねえちゃん程度であり、会社としてこれをやっているわけでもない。  ここに、このマーケットに参入する余地があると私は見た。  小売店からの意見といっても、結局は客との雑談から出てくるようなものだ。アダルト・ショップでは、極端に客と店員との会話がないから、会話を交わすのは、常連さんの一部である。常連さんというのは、間違いなく男だ。この男は、バイブを使った女がたまたま口にしたことをたまたま店で話したに過ぎない。情報の絶対数があまりに少ない上に、何人もの人を経ているから正確でもない。  また、問屋は、十人も社員がいないような規模の会社ばかりだから、商品開発といってもたかが知れており、自分たちの仕事に後ろめたさを持っていたりもするため、そういったことに積極的になれなかったりもする。問屋に努力家がいて、あっちゃこっちゃの女の子にバイブを試して感想を聞きまくり、よりよい製品の開発を心がけるなんてことはまず期待できず、股間に入れる女性たちの意見が直接商品に反映されることはほとんどないことになる。  私が聞いた範囲だけでも「冷たい感触を除いて欲しい」「表面をもっと柔らかくして欲しい」「一人でする場合、手が届きにくいので、紐やベルトで腰に固定できるようにして欲しい」といった意見があった。もっともっと女性に話を聞けば、男ではわからない意見がまだまだ出てくるだろう。やはり、わんさか娘さんを雇って部屋の中に監禁し(監禁するこたぁねえか)、日夜バイブを股間に入れさせ、彼女らの事細かな意見を反映させて、本当に女性の快楽を追求したバイブを出せば、一挙に売上げ倍増ではないか。  ところが、その問屋の人はこれも否定した。 「いくら女性客やカップルが増えているとはいっても、全国的に言えばまだまだ客の九九・九%が男ですから、男の幻想さえ満足させればいいのであって、女性が本当に喜ぶかどうかは二の次なんですよ」  ダメか。なんとか女をわんさか雇って、日夜、股間にバイブを入れさせたいのに。  しかしながら、女性の意見が全く反映されていないわけでもない。売れ筋のバイブの大きさは「熊ん子」のように日本人男性の標準サイズに近いものだ。これは私の体験で言っても理解できる。最初は面白がって大きいのを買ったりするが、結局、女性が好むサイズ、つまり標準か下手をするとチンポより小さめのものを愛用するようになる。面白いことに、欧米への輸出用も、同程度の大きさのものが好まれるという。日マンもアメマンもバイブにおいてはさほど好みが変わらないらしい。また、ここ何年か売上げを伸ばしているアナルバイブはアヌス用でなく、膣用に買っている人が多いとの説もある。タンポンもバイブも細身が好まれる時代なのだ。  間接的であっても、このように、女性の嗜好が売上げに反映されているのだから、女性らがもっともっとアダルト・ショップに足を運び、店員に要望を伝えれば、私のわんさか願望が実現する日はいつかきっとやって来る。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:その後、女性専用のアダルト・ショップが登場している。今後、より優れたバイブがきっと開発されることになろうかと思う。また青山正明らによる大人のオモチャに関する本もデータハウスから出た。読んでいないし、タイトル忘れちまったけども。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 8 性具産業関係者に市民権を![#「8 性具産業関係者に市民権を!」はゴシック体]  株式会社日本バイブといったようなバイブ専門メーカーは存在しない。問屋から委託された町工場が地道にバイブを作っているのである。下町のドブ川の横にある木造平屋の町工場で(イメージが貧困である。私の想像力はこんなもん。妄想力はあるんだがな)、パートのオバチャンたちが黙々とバイブを組み立てている光景はちょっと見てみたい。  パートで働いている〈三十二歳・既婚・子供は七歳と四歳の二人・十年前に結婚した旦那とのセックスはほとんどなし〉が、ついうっかり仕事の合間に辛抱たまらなくなってトイレに駆け込み、たった今自分で組み立てたバイブを股間に入れ込んでいたりするような気がするじゃないですか(妄想力もこんなもん)。  しかし、未だかつて、バイブを組み立てる現場をレポートした記事あるいは写真を見たことがない。私は問屋やアダルト・ショップの人に「工場の取材はできないものだろうか」と相談したことがあるのだが、「絶対に無理」との返事で、工場がどこの区にあるかさえ教えてくれなかった。  なぜかというと、私のように、ゲスな妄想を広げるのがいるからだ。世のため、人のための商品にもかかわらず、大人のオモチャを作っているというだけで妙な偏見を持たれる。万が一、これがバレたら、子供が友だちからバカにされるかもしれない。近所の人から白い目で見られるかもしれない。だから、取材なんて、させてくれるはずもないのだ。  私は工場探しを素直に諦めた。仮に工場の取材ができたとしても、原稿に彼らの身元がバレるようなことを書く気はさらさらないが、ちょっとしたことで特定されてしまったりする可能性だってある。たかが原稿のために、彼らの生活を脅かす権利などあるまい。  取材に協力的じゃないのは、問屋だってそうだ。問屋の取材も断られることが多いのである。私が取材した問屋も最初はそうだった。  電話に出た女性は、取材申込みだとわかった途端に声のトーンを変え、「雑誌に紹介されてなんのメリットがありますか。店なら売上げが増えるかもしれないけど、問屋にとっていいことなんてひとつもないですよ。派手にやるような商売じゃないでしょ。写真をバチバチ撮られて雑誌に出て、家族や近所の人に見られて困るだけじゃないですか」と取り付く島もない。  その会社では、こんな経験をしていた。ある雑誌に取材をOKしたところ、事前には話のなかったカメラマンも一緒にやってきた。写真は困ると言ったのだが、彼らは「絶対に顔は出さない」との約束で写真を撮りまくっていった。出た雑誌を見たら、しっかり顔が出ていたそうなのだ。大人のオモチャに限らず、このような非常識な取材をするヤツらはたくさんいる。報道の自由とやらを履き違えてやがる、こういったヤツらのせいで、こっちまで迷惑を被ることがある。こんなことがあれば、マスコミ不信になるのも当然だ。 「あなただってどうせ興味本位でしょ」などと言われ、「めっそうもない」と否定したはいいが、では興味本位以外の一体何かと言えば答える言葉がない。ただ、私はバイブをバカにする気など毛頭ない。中にはいるんですよね、根本のところでセックスを汚らわしいとか恥ずかしいものと思っているくせに、金になるから、部数が増えるからと、こういったものを扱う編集者やらライターが。 「ハイハイ、それはお怒りになるのもごもっとも。マスコミというのはけしからんですなあ」と話を聞き続けたところ、その女性の声のトーンがやがて柔らかくなってきた。私が本当にバイブ好きであることを理解してくれたようだ。こうして、この問屋は写真撮影は一切しないという条件で取材させてくれたが、話をしてくれた男性は、取材の途中で、ポツリとこう言った。 「今はまだ子供が小さいからいいけど、子供が大きくなっても、こんなことをやっているとは言えないよ。アダルト・ショップに対して、昔とは見る目が随分違ってきてはいる。昔はわざわざ店内を薄暗くしてやっていたもんですが、今は随分明るくなった。でも、こんなものを作っていますなんて堂々と言えるわけじゃないですよ。それがこの商売をやっていて一番つらいよね」  この会社の名前を見ても、大人のおもちゃの販売をやっていることなどまったくわからない。なんとか、このような存在から抜け出し、おとなのオモチャに関わる人々が堂々と子供に語れるようにならんものか。  ここで問題なのが、アダルト・ショップは風営法の管理下に置かれていることだ。よく考えると、これは奇妙である。どんなにエッチな下着を下着屋が売ってもかまわないし、アダルトビデオをビデオショップが扱うにも、本屋がエロ本を扱うにも許可はいらない。では、バイブがいけないのかと言えば、バイブは性具として売られているわけではない。あくまで玩具、土産物に類する商品である。バイブはチンポのようだが、よく見ると、熊だったり、亀だったり、コケシだったりの装いをこらしている。これは猥褻物頒布に抵触する可能性があるためだ。あくまでテレビの上に飾ったり、子供が遊んだりするオモチャや人形なのであって、買った人が勝手に股間に入れていることに建前上はなっている。にもかかわらずアダルト・ショップは風営法の規制を受けるのだ。  SMショップに行くと、輸入物の、チンポそのまんまのバイブが売られていたりもして、あのくらいで警察がとやかく言うとも思えず、事実、そのこと自体で摘発されることはまずない。ただ、裏物をやっている業者を取り調べる時にバイブが別件捜査に使われたり、あるいは裏の証拠があがらなかった時にメンツを保つために熊さんや亀君たちを警察は押収したりする。 「我々は微妙な立場ですよ。いざ警察がやろうと思えばどんなものでも摘発できてしまう。ただ、ひどい店が多かったのも事実ですからね。風営法は我々にとっては痛手ですけど、そのくらいの規制があった方が淘汰されてよかったんじゃないですかね」  恐らく、アダルト・ショップで裏物を扱う業者が現にいるため、風営法を適用して警察の管理下に置こうという意図なのだろうが、裏をやるやつは何をやったってやるに決まっている。風営法のために、アダルト・ショップの新規オープンは非常に難しく、結局はモグリの店が乱立して、真面目な業者はワリを食う。そして、このような立場にバイブやアダルト・ショップが置かれていることで業者は萎縮する。  ほんの少し前までは、コンドームだって大人のオモチャに近い日陰ものの商品だった。コンドームメーカーの不二ラテックスによれば、かつては工場で働くパートの女性を確保することさえ容易でなく、パートの女性らは、自分の子供に「医療用ゴム手袋を作っている」と説明していたりしたそうだ(事実、不二ラテックスは医療用ゴム手袋の分野でも大きなシェアを持っている)。  ところが、エイズ以降、コンドームは世界を救う希望の光となり、有名デザイナーのコンドームが発売され、コンドーム専門店には女性たちが集まる。コンドームの歴史始まって以来の事態を迎えて人材の確保に悩むこともなくなり、大卒の入社希望者も一挙に増えている。  バイブや電動フグ、ダッチワイフも、世界を救う希望の光となって、コシノジュンコがデザインしたバイブが若い娘さんたちに大人気ということになれば面白いんだがなあ。ならないよなあ。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:その後、女性がデザインしたオナニーグッズが登場しているし、SMが市民権を得たことによって、明るい店内、明るい店員のSM系アダルト・ショップが増えつつあるようで、着実に状況は変わってきているようでもある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 9 バイブ処女の初体験レポート・その1[#「9 バイブ処女の初体験レポート・その1」はゴシック体] 「週刊SPA!」に以前から企画を出していた「日本人の自慰」特集が実現することとなり、その事前調査として、いろいろな女の子にオナニーの話を聞きまくっているのだが、その結果、意外なことが判明した。オナニーをしている男女に限って言えば、男よりも女の方が平均開始年齢が早いのだ。女性の中には、セックスを体験して以降、あるいは結婚や出産を経てからオナニーを始める奥手も多いのだから、一方で極端にオナニー開始の早い女性がいることになる。  この私も、男の中では、相当早い方の部類に入るだろうが、この早熟な私に勝るとも劣らない女性を既に数人発見している。南智子先生は幼稚園からしていたというし、他にも小学校からしていたという人は、ごく身近に何人かいた。気になって調べてみたら、女性の方が早熟オナニーをする傾向は、古今東西共通に見られることらしい(豊島順二郎著『子供の性生活』人間の科学社)。女子の方が体が早く成熟するためなのか。男の場合はチンポが立つから親に発見されやすいのに対し、女はバレにくいためなのか。どうもはっきりしないのだが、ここには男の性と女の性に一線を引く、何か決定的な差が潜んでいるようである。  この探究はいずれ徹底的にやるとして、今回は四歳からオナニーしている女の子を紹介しよう。彼女は二十一歳のA子さんで、アルバイト生活をしている娘さんだ。最も古い記憶が四歳というだけで、それが最初のオナニーであるかどうかは覚えておらず、ことによると、もっと早くやっていたかもしれないと語る。三島由紀夫のように生まれた直後の記憶がある人もいないわけではないが、こういったもののほとんどは後に自分で作り上げた記憶であり、人間の最も古い記憶は三歳から四歳のこととされる。残念ながらA子さんはそういうわけではないのだが、人生において最も古い記憶がオナニーをしていたものだったりするとステキだなあ(なんて思うのはオナニー好きのオレくらいのもんか)。  その辺にいる小学二年生を見て、「この年からオレはオナニーをしていたのか」と考えると愕然としたりもするが、その辺にいる四歳児の女の子を見て、「この年からA子さんはオナニーしていたのか」と考えると、もっと愕然とする。  ガキの頃に、股の間に何かはさんだり、本や鉄棒に股間を押し付けてむず痒いような快感を得たりという経験は誰しもあるものだが、四歳のA子さんも、六歳の南智子さんも、しっかり絶頂に達していたという。私の場合も、精液こそ出なかったが、今と同じ絶頂感はあって、セックスのことなんてまるで知らなかったのに、ちゃんといやらしい想像をしていた。従って、ちょっと気持ちがいいというようなものでなく、明らかな自慰、明らかなオナニー、明らかなセンズリ、マンズリである。  A子さんは、それから今に至るまでオナニーをし続けているのだが、中学の時に箪笥を開いたら、そこにバイブがあるのを発見したことがある。それは母親が使っているものだったのだが、これが噂の電動コケシというものかと思い、自分でも使ってみることにした。 「母親がそういったものを使ってオナニーしている、あるいは父親とのセックスの小道具にしていること自体はショックじゃなかった。家が狭かったので、両親がセックスしていることは声を聞いて知っていたし、自分だってオナニーしているんだから、母親がオナニーをしていたところで不潔とは思わない。それよりも好奇心の方が強かった」  それもそうだ。「お母さん、不潔」と泣き叫んだって、「おまえも同じ」と言われたらおしまいである。彼女が四歳からオナニーをしているような娘だったから、母親は軽蔑されたりせずに済み、本人としても非行に走らずに済んでよかった。家庭不和、青少年非行を防ぐためにもオナニーを推奨しよう。  好奇心で頭を満たした彼女は、バイブでマンコを満たそうとしたのだが、処女の膣には大きすぎて、とても入らなかったという。それ以来、大人になったら、いつかバイブを使ってみようと思い続け、昨年、つきあっている男に、「バイブを使ってみたいなあ」と言ってみたが、男は冗談だと思って相手にしてくれない。  彼も頼りにならず、思いあまったA子さんであるが、ある日、道を歩いていたらアダルト・ショップがあり、一人でフラリと中に入ってみた。  ここまでを読んだ皆さんの頭の中には、AVに出てくるような、見るからにセックス好きなイケイケギャルや、元ヤンキーみたいな女のイメージが既に出来上がっているかもしれないが、A子さんは、どこをどう見ても、一人でアダルト・ショップに行くようには絶対に見えない女の子で、セックスにさえ興味がなさそうに見える。セックスをした相手は現在の彼だけだというから、同年代の女性の中では、地味な性生活をしている方に属するだろう。彼女は、幼い頃からオナニーに馴染んでいるから、欲求不満になったらオナニーをすればいいと割り切っており、ことによると、オナニー好きの女の方が貞操を守る傾向があったりするのかもしれない。  彼女は、オナニーに対する罪悪感はまるで持っておらず、オナニーのための道具を買いに行くことに、たいしてためらいも恥ずかしさもなかったそうであるが、しかし、バイブを買うには所持金が少し足りない。ローターだったら安いものだが、彼女の頭の中には、母親が持っていたチンポ型バイブが焼き付いていて、ローターは目に入らなかったのだ。知らなければ、あれがバイブの一種だとは思わないのだろう。せっかくアダルト・ショップで憧れのバイブを目前にしながら、結局A子さんはバイブを買うには至らず、中学の時から胸の中に温め続けてきたバイブ願望は、未だ実現されないままなのである。  といった話を聞いた私が黙っているわけがなく、A子さんにバイブを貸出し、使用感を報告してもらうことになった。  六月×日、バイブが一杯詰まったバッグを抱えてA子さんの住む駅まで会いに行った。皇太子の結婚を前にして、警官があちこちに立っており、万が一、検問にひっかかったりしたら面倒なことになったろうが、無事、彼女にブツを渡すことに成功した。 [#改ページ] 10 バイブ処女の初体験レポート・その2[#「10 バイブ処女の初体験レポート・その2」はゴシック体]  喫茶店で十種ほどのバイブが入った紙袋をA子さんに渡すと、A子さんは、長年の夢が遂に叶うと目を輝かせた。この話は彼も知らず、客が他にいなかったのを幸いに、秘密を共有している我々は、思う存分バイブについて語り合った。彼女は風邪をひいていて、体調が思わしくなかったのだが、 「どうせ家で寝ているだけだから、今日と明日、やりまくります」と言って大きな紙袋を抱えて嬉々とした表情を浮かべた。  その二日後である。私は約束通り、感想を聞くため、A子さんに電話した。 「使いましたよ」と言うA子さんの声は、心なしか、弾んで聞こえる。 「昨日と今日、使ったんですけど、気持ちよかったぁ。いつもオナニーする時は、電気を消してするんだけど、今日は、薄明かりでしました。だって、自分の中にバイブが入って行くのを見るだけで、すごくいやらしい。興奮しちゃいました」  私も、その言葉を聞いて興奮しちゃいました。では、興奮しながら、使用感について詳しく聞いてみるとしよう。  最初に彼女が入れたのがスペシャルビッグだというのには驚いた。これはその名の通り、長さも太さも超ビッグサイズで、これまで、何人かにバイブを貸出しているが、こいつを試した女性はいない。試そうとする前に、その大きさを見て「入るわけないよー」と尻込みしてしまうのである。 「誰も試した人がいないから、是非、これを使ってみて欲しい」と私は彼女に頼んではいたが、まさか一発目にやってくれるとは思わなかった。 「意外にも、スルッと入ってしまいました(笑)」  バイブを使う期待感で、とっくにマンコはヌレヌレになっていたのである。 「でも、スイッチを入れると、さすがに痛くて、気持ちいいというようなもんじゃなかったですね」  実は彼女には巨根願望がある。オナニーをする際に思い浮かべるのはいつも実際以上に大きなブツなのだ。実際のセックスにおける、物理的な快楽装置としてのチンポとは別に、イメージ上で大きなものに欲情する女性は他にも知っており、巨根願望は単に男の幻想というわけではない。A子がまずはスペシャルビッグを選んだのも、そういった巨根願望によるものだろう。  次に入れたのがET6。これも大きめのバイブだが、彼女は「こちらはなかなかよかった」と賞賛する。ET6はICを使っていて、非常に微妙な動きをするのだが、彼女が気に入ったのは、動きではなく、根元にある回転パールだ。つまり、根本にシリコンの小さなボールが帯状についていて、これが回転して、膣口を刺激するのである。「刺激が強すぎて痛い」と敬遠するムキもあるが、好きな人はとことん好きで、彼女はえらく気に入った様子だ。  そして、ET6以上に彼女が気に入ったのがスモールバード。これまでの調査でも、このバイブの評価は高い。スモールバードも回転パールがついており、ET6よりはサイズが小さくて普通の男並みだ。回転パールものでは、最も売れ筋である。そして、彼女はこれで達したという。よかった、よかった。イメージとしての巨根願望とは違い、物理的な快楽のためには、結局のところは、このような標準サイズのものがいいようである。  昨日はここでおしまい。本日昼の第二部に舞台は移る。 「熊ん子、ニュー熊ん子も、なかなかよかったけど、私はビーナス・バタフライが好き」  ビーナス・バタフライは、紐のついた蝶型のゴムで、ゴムの部分が振動する。これを紐パンのようにはき、蝶の部分をクリトリスに当てる。これは小刻みで優しい振動なので、達することは難しいかもしれないが、概ね女性には好評である。 「すごく気持ちよくて、三十分くらいつけっぱなしにしてました」とA子さん。  ビーナス・バタフライは、つけたままセックスすることもでき、つけたまま外出することもできる。応用範囲は広いのだ。  このほかにピンクローター、親子ローター、親子亀、アドヴェンチャーなどなどを貸してあったのだが、それらを試すまでもなく満足した模様である。 「自分のクリトリスがあんなに感じるとは思わなかった。私の人生においては、革命的な体験でした」  女性には、クリトリス派と膣派がいて、彼女は同世代の女性としては少数派に属する後者である。オナニーの際には指を膣内に挿入して達することができ、これまではクリトリスを重視していなかったのであるが、今回、クリトリスの快楽にも目覚め、今後オナニーの方法が少々変化しそうである。 「もしうちにバイブがあったら、やっぱり使ってしまうと思う。でも、のめり込むという感じでもなくて、なければないで指でやればいいんだから、全然困らない。最終的には彼とセックスしていた方がよく、肉体的には満足しても、オナニーじゃ一〇〇%満足することはできない」  彼女はそれほど頻繁にオナニーをするわけではなく、一カ月しなくても平気だというのだが、セックスをすると、それが誘い水となり、彼と別れたあとで彼とのセックスをオカズにしてオナニーをしてしまったりする。というのも、セックスで達したことはこれまで一度しかなく、セックスで一〇〇%肉体を満足させることは難しい。そこで、オナニーによって文字どおりの穴埋めをするのである。セックスとオナニーは別物と語るが、現在の彼女にとってのオナニーは、セックスの補強との意味合いが強い。男たちの知らないところで、穴埋めオナニーをしている女性は本当に多い。女のオナニーを許したくない男も多いかと思うが、浮気しているんじゃないんだから、いいんじゃないすかね。 「でも、しばらくすると、またしたくなって、買いに行っちゃうかもしれないなあ」とA子さんはつけ加えた。きっと彼女はそうすることになろうが、そうしたところで、彼とのセックスを越えるものにはなり得ないだろう。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:A子さんは、もともとそれほどよく知っている女性ではなく(なのに、あんなことやこんなことまで聞いて、しかもあんなことやこんなことまでさせるとは)、その後、何度か電話では話しているのだが、バイブを買ったかどうかは確かめそびれている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 11 マッサージ器はバイプに替わるか?[#「11 マッサージ器はバイプに替わるか?」はゴシック体]  いつも行くDPE屋に、全長十センチ程度の小さなマッサージ器が売られている。「ミニ・マッサージャーG2」という千円の商品だ。その店に行くたび在庫を確認しているのだが、これが着実に売れている。この店はDPEだけでなく、電池、カセットテープなどなどを売っているのだが、このマッサージ器はレジのすぐ横に置いてあり、この店の主力商品のひとつであることが窺える。  これなら、ドレッサーの前に堂々と置いても怪しまれない。バッグの中に忍ばせて、外出先のトイレでやらかしても大丈夫だ。音も小さくて、パンツの中に入れてしまえば、まず聞こえないだろうから、歩きながらだって使える。  もちろん、本当に肩凝りのために使う人もいるだろうし、私とて、そういう目的で買ってみようかと思わないではない。しかし、そのような目的で買ったとしても、旦那が出社したあと、レディースコミックを見て興奮した主婦が「さて、オナニーでもしましょうかしら」と思い立った際に、マッサージ器のことがひらめく可能性は相当高いだろう。  しかし、最初からマンコを刺激するために、これを買う人も相当多いのではないか。彼との旅行の写真をDPE屋に出しに行った女子大生が、ふとレジの横を見ると、マッサージ器がある。リゾート地でやらかしたセックスの記憶が生々しく蘇り、「家に帰ってオナニーでもしましょうかしら」と思い立って、マッサージ器を買う。  こういうことって、写真を出すついでに肩凝りのことを思い出すよりも、遥かに多いに違いない。  さらには、メーカーも、それを前提にして、このような商品を開発し、DPE屋という販路を選択したのではないかという気もする。  実際に、この商品は、どの程度オナニー・グッズとして機能するのだろうか。フィルムを出した際に、そのような疑問を抱き、私はマッサージ器を買った。  肩に当ててみると、肩凝り用としては接着面が狭すぎるように思う。頭皮刺激用のキャップがついていて、こちらはなかなかよろしい。ハゲない気がする。  次にチンポに当てる。おお、こいつぁ、具合がよい。小学校の頃、家にあったマッサージ器でチンコをよくマッサージしていたことを思い出す。チンコの奥がモゾモゾする。発射するには至らぬが、女性の体においては相当の活躍が期待される。  私は知合いの女子大生を呼びつけた。彼女はセックスも好き、オナニーも好きではあるが、器具はまだ使ったことがなく、いずれバイブを貸してあげる約束をしていた子だ。  私はそのマッサージ器とパールローターを今ここで使わせてくれないかと頼んでみた。彼女は抵抗した。 「一人で使うならいいけど、どうしてここでしなければならないのよ」 「オレがここでして欲しいからだ。やっぱり科学実験は間接的な証言よりも、目の前でやってみるのが理想である。何も裸になれとは言わない。ジーンズの上から押し当ててみて、両者の振動を比較してみて欲しいだけだ」と説得、彼女は承諾した。  まずはマッサージ器だ。私は彼女の股間に押し付けた。押し付けるや否や、彼女は「ア〜」と声をあげてのけぞった。 「くすぐったいけど、キモチいい」  私はマッサージ器を上下に動かした。 「ダメっ!」と彼女は私の手を掴んだ。 「なぜだ」と私。 「だって、パンティがグショグショになっちゃうよぉ」 「だったら、脱ぎなさい」と私が言うと、「わかった。でも、電気を暗くして」と彼女は言い、その場でジーンズとパンティを脱ぎ捨て、上着だけになった。若い娘は大胆さね。  彼女はベッドの上に仰向けとなり、私は彼女の足を大きく広げる。薄暗がりで見ても、確かにすでにグッショリである。なるほど、これではパンティが汚れてしまうな。  私は彼女の押し殺したような喘ぎを聞きながら、マッサージ器とパールローターを交互にクリトリスに押し当てた。 「どっちが気持ちいいかな?」  彼女はマッサージ器の方に軍配を上げた。マッサージ器の振動は、強いにもかかわらず細かく柔らかい。私が使ったパールローターは振動の強弱を調整できる機種なのだが、それでもマッサージ器の絶妙な振動にはかなわない。また、このマッサージ器は、ローター同様に全体が振動するため、先端部をクリトリスに押し付けるだけでなく、中に全体を挿入する活用方法も有効だ。  つまり、バイブの代用のために仕方がなく使うものでなく、これはこれで完成されたオナニー・グッズなのであった。十人中十人とは言わないが、少なくとも十人中一人や二人はオナニーのためにこれを買い、それと同じくらいの女性が、マッサージの目的で買ったのに、その目的を忘れて股間にあてがっていると私は推測し、メーカーも、そのような使い方をいくらかは想定してこのような商品を作り、DPE屋という日常立ち寄ることの多い店を販路に選んだと私は結論づけた。  ここで実験の主たる目的を終え、マッサージ器の活用法をさらに発見すべく、また、マッサージ器だけでオーガズムを得られるかどうかを確認すべく、位置をずらしたり、中に入れたりしたが、彼女は、特にマッサージ器を割れ目に沿わせて密着させるのが気に入ったようだ。 「もう、我慢できない〜」と、辛抱たまらなくなった彼女は、私の股間に手を伸ばした。そんなことしたらチンコがビンビンになっちゃうよぉ。 〈これ以降、約一時間分の描写は削除〉  では、今回の実験の総評を彼女に述べていただこう。 「一番いいのはやっぱり松沢さんの×××××(五文字削除)ね。でも、このマッサージ器も気に入っちゃった」  彼女はマッサージ器を大事そうにバッグに入れて持ち帰ったのであった。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:彼女とはその後もたまに会うが、マッサージ器の行方は杳《よう》として知れない。そんなこと、わざわざ聞かないからだけども。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 12 バイブ道、未だ極め難しと知る[#「12 バイブ道、未だ極め難しと知る」はゴシック体]  この春から私はガロ・ショップ「タコシェ」の店員である。プロのライターに向いていないことを自覚、向いていないことを仕事にするのは不幸なので、昔から向いているのではないかと思っていた店員になったのだ。  その店に先日変態さんがやってきた。その日の女子店員からの報告によれば、男はふらりと店に入ってきて、「先月から会社に行っておらず、会社から、もう来ないでいいといった電話があり、母親や弟から殴る蹴るの暴行を加えられた。母親と職安に行く予定だったが、それもすっぽかしてしまった。今日は、ずっと電車に乗っていたが、祭でしゃぼん玉を買ってしまって、あと十四円しかなく、家にも帰れない」といったことを告げた。  金が欲しいのかと思い、「交番に行けば貸してくれますよ」と教えると、「交番に行ったが貸してくれなかった」と言う。明らかに挙動不審なので、警察も相手にしなかったのだろう。しかも、戸塚署(早稲田近くの警察署)には、かつてやっかいになったことがあるので、行くわけにはいかないそうだ。 「僕はバイブを持っているので、見つかるとマズい。前に女の子に突っ込んで捕まったこともあるんですよ」  店員はここで身の危険を感じた。どう見てもまともじゃなく、戸塚署だけでなく、住んでいる北区方面でも何度か捕まっているらしい。これでは家族に暴行を加えられてもしょうがない。  他に客はおらず、人通りも少ないところなので、助けも求められない。「このまま私はバイブを入れられるかもしれない」と彼女は思った。  このあとまだやりとりはあったのだが、結局、無事に店から追い出すことができた。チンポを入れられるのもイヤだが、好きでもない男にバイブを入れられるのもさぞかし不快なものだろう。くれぐれもバイブは正しく使用していただきたい。  この連載では正しいバイブの使い方を探求してきたわけだが(そうだったっけ?)、いよいよ今回が最終回だ。  最終回のネタはまだ夏のある日、あっちからやってきた。  長雨が続いたこの夏だが、少しだけ晴れ間の見えたある夕方、突然の来客があった。浴衣姿の女性である。一瞬誰かわからなかったが、以前、私の友人ら何人かと一緒にうちに来たことがある女性だ。それ以外でも何度かは会ったことがあるが、それほど親しい女性でもない。  どうしたのかと思ったら、この近所に住んでいる友人と一緒に祭に行ってきて、そのついでに寄ったのだという。  家に上がってから気づいたが、彼女は頬が赤く染まっていて、既にたっぷり酒が入っているようだ。浴衣と赤く染まった肌。それに祭のあとと言えば、バイブに決まっている。「セックスしたい」じゃなくて、「バイブ入れたい」というところが、私の仕事熱心な性格を物語ろう。  以前うちに来た時、皆でバイブの鑑賞会をやり、彼女は最も積極的な関心を見せていて、ことによると、今日ここにやってきたのも、最初からバイブが目的だったのかもしれない。  女性思いの私は、そんな彼女の気持ちを推し量って「今日は他に誰もいないから、バイブでも使っていけば」と勧めると、「何、言ってんのよ」と否定してから、「でも、バイブって興味あるの」とつけ加えた。  最初の一文は聞かなかったことにし、「そうかそうか、興味があるか」とバイブが詰まった大きな袋をテーブルの上にのせた。 「どれでも好きなのを使いなさい」 「えー、そんなことできない」と言いながら、彼女は次々と手にする。どうやら「熊ん子」が気に入ったようだ。これまでに百万本以上売れていると言われるバイブ界の定番を選ぶとは、さすがにお目が高い。私はそれにコンドームをかぶせた。 「いやだ。そんなことしないからね」 「私だってそんなことをしようというんじゃないだすよ。入れなくてもいいから、入れているようにして、写真を撮らせてくれるだけでよろしい」と言うと、何のために写真を撮るのかとの根本的な疑問は口にせず、「写真だけよ」と建前上念を押し、彼女は立ち上がって、スルスルスルと下着を脱ぐ。椅子に腰掛けさせ、広げた足の間から股間にバイブをあてがわせたが、浴衣が邪魔になって、写真を撮ってもよくわかるまい。  私は彼女の浴衣をめくってモモを露わにし、さらに片足を立て膝にして、立てた足の間から、今まさにマンコに入っていくバイブを見えるようにしてシャッターを押した。  しかし、これでは、よくエロ本にあるように、ポーズでやっているようにも見える。私はバイブを握っていた彼女の手の上に私の手を添え、「もうちょっとこうした方がいいな」とバイブを挿入した。最初から濡れていたのか、すんなりとバイブは入った。彼女は私の手を握りしめる。 「こうなったらスイッチを入れた方がもっといいな」とスイッチを入れた。撮影するだけなのに、どうしてスイッチを入れた方がいいのかとの疑問も、そして私がカメラをテーブルに置いてしまっていることへの疑問も彼女はもはや口にしない。  ソファーに場所を移し、あれもこれもと次々にバイブを入れるが、彼女は全然抵抗せず、アヌスにまでバイブを入れさせていただいた。  結局、彼女が今回の撮影のために最も気に入ったのは、前回紹介したマッサージ機でクリトリスを刺激することだった。実は、こういうこともあろうかと、その後、また買っておいたのだ。彼女はクリトリス派の女性だから、これももっともというところではあるが、それにしても、こいつは人気が高い。しかし、それとて、彼女を満足させるには至らなかった。彼女はセックスで達することは滅多にないが、オナニーでは簡単にイケるという。しかし、マッサージ器も彼女の指にはかなわなかったのである。 「私、バイブってダメみたい」と言うので、てっきりチンポがいいという意味かと思って、女性思いの私はチンポを出そうとしたが、「そうじゃないの」と本気で抵抗する。冗談ですよ、冗談。冗談の割には勃起していたりするけども。  やっていることは変態さんと限りなく似ているが、抵抗する女性に無理強いしないところで辛うじて社会性を保っている私は、ここでカメラを使わない撮影会を中止した。  残念である。チンポを入れられなかったことも残念だが、それ以上にバイブで満足させられなかったことが残念だ。彼女は「バイブがいくらよく出来ていても、愛がなければダメなんじゃないかしら」という。彼女への愛がないわけではないが、今のところはそうあるわけでもない。  私のチンポとバイブは愛の前に敗れ去ったのであった。バイブ修業は一から出直しだ。彼女が帰ったあと、バイブを片付けながら、私はそう誓った。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:連載時にはこの時撮った写真が掲載されていた。彼女とは、その後、道でバッタリ会ったが、この日のことはまるでなかったかのように楽しく立ち話をした。元気そうでなによりざんす。こういった原稿を読むと、いつでも誰にでもこういうことをしているように思われかねないが、それは誤解というもの、私としても時と場所を選ぶし、相手だって選ばせていただきたい。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第3章 性器末SM入門編[#「第3章 性器末SM入門編」はゴシック体] 1 翔子女王様の聖水は健康な味だった[#「1 翔子女王様の聖水は健康な味だった」はゴシック体]  以前から私にはMの気があるのではないかと思っていた。ガキの頃、悪者に誘拐されたとの設定で自らさるぐつわをし、体を柱に縛りつけて、ひとりで遊んだりした。子供にはその傾向がしばしばあるものだが、机の下、ベッドの下などの狭くて暗い所を最も心落ち着く場として好み、押し入れに籠もり、外から漏れてくる光を見て心細さと安寧の狭間で時を過ごすことも多かった。とりわけ私は閉じ込められる感覚が好きで、箱があるとすぐに入ったものだし、大きなビニール袋の中に入って口を中から閉めて息苦しくなることも楽しんだ。たぶんこのような性癖とつながるんだと思うが、辛うじて息ができるくらいの空間を残して風呂桶にフタをし、熱気に耐える遊びは中学くらいまでやっていて、それで鼻血を流したことも何度かある。  風呂と言えば、大学時代、銭湯に行くと、自分より先に湯船に入っている人が全員出るまで外に出ないという厳格なルールを作っていた。どうも似たようなルールを作っていたり、ルールまではないにしても、湯船で我慢することを歓びとし、しばしばそれを人と競ってしまう体質の人は他にも多くいるようで、互いに互いを意識して「お前なんかに負けるものか」と時折視線を飛ばしつつ、意地の張り合いになることがよくあった。ちなみに私は四年間の銭湯生活の中でただ一回だけそのルールを守れなかったことがある。その時も完全に敵は私を意識していて、こちらもあちらを意識していて、負けてなるかと随分頑張ったが、失神しそうになって私が先に出た。男は勝利を確認して、そのすぐ後に出た。あれはいい戦いだった。  今でも耐えることは好きで、例えば引っ越しの手伝いなどで重い物を辛抱して持ったり運んだりしているだけで生きている実感が湧いてきて、ちょっとした陶酔感に浸ることがある。また、徹夜を続けて原稿を書いているうち、このまま死ぬかもしれないと思い、なのに多幸感に包まれることもある。  ただ、こういった性癖は、性的な嗜好とは無関係に、単に我慢強いということに過ぎないとも思う。緊縛写真に美は感じても、それでチンポは立たないのだ。  しかし、私の我慢好き、閉所好きは開発次第でMとして開花するものなのかもしれず、今回の体験取材の誘いにすぐに乗った。しかも調教してくれるのは、目黒のSMクラブ「ラビリンス」の翔子女王様だというではないか。「ビザール・マガジン」のグラビアで翔子女王様のお姿を拝見して、「この女王様になら、何をされてもいい」とかねがね思っていたところだ。  私の前に現れた翔子女王様は、写真で見ていた以上にお顔もスタイルも抜群、意外にもおっとりした口調がまた私の好みである。翔子女王様が初のM体験の相手である幸運に胸を躍らせた。  まずは打合せである。SMやるのに打合せがあるとは知らなかった。同じSMでもいろいろな趣向があるのだから、どこまで何をどのようにやるのか、奴隷はどのような資質を持っているのかを、ある程度女王様は知っておかなければならない。 「一通り全部やってください」と私が言ったところ、「じゃあ、針を刺してもいいの」とかわいらしく翔子女王様は聞いてくる。「それはちょっと」と首を振るが、事と次第によっては、それもありかと内心思う。「様子を見ながら、やっていきましょう」ということとなり、私はパンツ一枚となった。 「じゃあ始めましょうか」とあくまで優しい口調の翔子女王様である。しかし優しかったのはそこまでだ。 「ごあいさつしなさいね」と言うので、それまでと同じ口調で「よろしくお願いします」と頭を下げた私に、豹変した翔子女王様は怒鳴った。 「なに立ったままあいさつしてるのよ」  私の髪の毛をつかんで頭を床に押し付ける。一体どうしたんだ、この女に何が起きたんだ。プレイというのがこれほど急激に始まるものとは思わず、私は何が何だかすぐには理解できなかった。発狂したのかとも思われた翔子女王様は床に押し付けた私の頭の上にヒールを乗せた。 「いてててててて」と私は思わず声をあげる。 「痛くないはずよ」と翔子女王様は言うが、本当に痛いんだよ。 「早くごあいさつをしなさい」 「よ、よろしくお願いします」 「誰に言ってるの」 「翔子女王様です」 「翔子女王様、よろしく調教をお願いします、って言うのよ」 「翔子女王様、よろしく調教をお願いします」  さっきまでほのぼのと話をしていたのに、急には奴隷の気持ちになれず、そのような言葉をスムーズに言うことさえ難しい。  なおも翔子女王様はヒールに力を込める。 「いたたたたたた」 「ここには痛いなんて言葉はないの」と翔子女王様は私の上に馬乗りになる。重い。重くて体が安定しない。 「何やってるの。重くないでしょ」 「いや、重い」  そう私が正直に答えたら、翔子女王様は馬乗りになったまま、髪の毛を引っ張る。 「これでも重いの?」  髪の毛を引っ張ったって重いもんは重い。 「だから重いんだってば」と相変わらず自分の立場を理解していない私。  今度は左右の乳首をつねってくる。またまた痛い。 「重くないでしょ」  ようやっと私は、重いと言うと、痛みを与えられることを理解し始めた。 「あんまり重くないです」  あんまり、とつけるところがまだ奴隷に成り切っていない。 「もし倒れたりしたら承知しないからね」と尻を叩く。  痛いが、痛いなんて言ったら、また怒るので、黙って耐える。  翔子女王様は立ち上がって四つん這いの私のパンツを下げた。 「ほら、お前のお尻が丸出しよ。汚いお尻ね。ちゃんと洗ったの」  初対面の人のケツを見て、そんな失礼な言い方をしなくてもいいじゃないか。 「洗った、洗った。うちはウォシュレットだから」と、私はムッとしたあまりに、うっかり地に戻り、敬語さえ忘れた。 「そんなこと聞いてないッ」と腹を蹴られた上にビンタである。女性にビンタされたのは十年ぶりだ。そんなに怒らなくてもいいのに。短気なんだから。  お怒りになった翔子女王様は私を縛り始めた。私を立ち上がらせて首にロープをかけ、手際よく体中に巻き付けていく。縛られるのは悪くない。体が引き締まる感じがする。フンドシの紐を締めたり、たすきがけをするようなもので、「さあ、これからひと仕事やるぞ」というような決意がみなぎる。やる気が出て来たのはいいが、身動きが取れない。  翔子女王様はイモムシのようになった私を床に転がせる。仰向けになると、後手に縛られた手首に体重が乗るため、痺れるように痛い。不自由な体をなんとか動かして、手首に体重を乗せないように工夫する。 「お前はさっきから痛いとか重いとか、そんなことばっかり言って。でも、もう動けないからね」  翔子女王様はちぢこまっている私のチンポをヒールの先で弄ぶ。大切なチンポをそのように粗雑に扱うのはいけないと思う。もし相手が翔子女王様でなかったなら、私は怒り出していたかもしれない。 「私を目の前にして、何よ、これ。情けないわね。どういうことよ」  そんなこと言うたかて、こんな痛くて、こんなに怒られては、チンポ立ちませんがな。 「どういうこともこういうことも、手首が痛いんですけど」と私は翔子女王様にお願いして、体の位置を動かしてもらった。今回は怒られなくてよかった。 「お前みたいなバカを相手にしていたら疲れたわ。座るところないかしらね」 「そこに椅子がありますよ」と答えた私の顔の上に翔子女王様は尻をのせた。そうか、ここでは「どうぞ、私の上におのり下さい」と答えるのが正しいMのあり方なのだな。重いけど、翔子女王様の尻たぶを直接感じることができてこれは悪くない。と思っていたのもつかの間、ぐいぐいケツを押し付けるものだから、息ができない。 「くくく、苦しい」ともがいた。 「何言ってんの。いつまでたってもわからないのね。苦しいんじゃなくて、気持ちいいんでしょ」 「はい、気持ちいいですぅ〜」  私はエナメルのパンツの横から舌を差し込もうとしたが、「何モゴモゴやってんのよ」とまた怒られた。私にはMの才能がゼロと見てとったか、翔子女王様は呆れ顔である。 「どうしましょうか。ポーズの写真だけ撮りましょうか」と翔子女王様は編集者に提案した。 「いえいえ、このままどんどんやってください」と編集者。私が縛られて身動きとれないのをいいことに、勝手なことを言いやがる。私も、風呂で我慢することと性的なMとは全然別物との結論を早くも出しつつはあったが、これから先どこかでM能力が大爆発しないとも限らず、ここで終わらせてしまったら一生後悔が残るし、原稿も書けない。 「好きにしてください」と私は頼んだ。 「えー、ホント?」 「ええ、もっともっといじめてください」と私。もしかすると、まだまだ刺激が足りないのかもしれないとも考えたのだ。 「美姫《よしき》ちゃんが来たら、二人女王様でヤッてあげようか」  そりゃまた豪勢な。美姫女王様は、翔子女王様と並ぶ「ラビリンス」の看板女王様である。その二人にいたぶられたとあれば、SM界では胸張って自慢できるってものだ。ところが、編集者が反対した。 「それはいくらなんでも」 「どうして? 美姫ちゃんはダメ?」と翔子女王様はせっかくのアイデアが受け入れられなくて残念そう。私も残念。 「だって、美姫ちゃんは手加減しないから、死んじゃいますよ」と編集者。翔子女王様も十分乱暴者だが、美姫女王様はもっとハードらしいのである。死んじゃうのは困る。「ラビリンス」だって編集者だって困るが、死んじゃう私が一番困る。  こういった会話をしているうちに、空気が弛緩してしまってしばらく雑談になった。 「縛られている時もMの人はチンポが立ったりしているんですよねえ」と私。 「そうね。最初から立っている人だっているわよ」 「変わってらあ」 「あなただって十分変わってるわよ」  それもそうだ。全身を縛られて床に転がっている私には反論できない。 「オレって才能ないのかなあ」 「プレイの向き不向きとかもあるから、まだわからないけど。それと、見られていると、没頭しにくいかも」  ずっと編集者が横で写真を撮っているのだ。 「なるほど、それはあるかもしれない」 「さあ、これからは�なるほど�なんて言っている余裕はないわよ」  翔子女王様はロープの一部を外して、私をまた四つん這いにさせた。 「いい格好じゃないの。ほら、もっと足を広げなさい」  言われた通りに足を広げる。 「汚い尻が丸見えよ。恥ずかしいわね」 「あんまり恥ずかしくないです」  頭が奴隷じゃなくなってしまっていた私はまた素直に答えた。 「人前でよくチンポを出しますし、人の家でおもむろにパンツを脱いで尻の穴を見せ、何事もなかったかのように、またパンツをはいたりするのが好きですから」 「ハハハ、お前は羞恥心がないのね」と翔子女王様も笑いを抑えられない。  そうだったのか。世間の皆様は恥ずかしがり屋ばかりと思っていたが、皆が恥ずかしがり屋なんじゃなくて、オレが恥知らずだったのか。ユーリイカ。これは大発見である。 「じゃあ、もう容赦しないわよ」  羞恥プレイが私にはまるっきり通用しないことを見て取った翔子女王様は、ムチを手にした。バラムチである。一本ムチは骨が折れるほど痛いが、バラムチは音が派手なわりにはそんなに痛くないんだよな。  ビシッ!  話が違う。無茶苦茶痛いじゃないか。  ビシッ!  すげえ痛え。誰だ、バラムチが痛くないなんて言っていたのは。 「よろけちゃダメでしょ。どうしてお前はお尻を動かすの」  痛いからだが、痛いと言えば間違いなく連打されてしまう。 「どうして動くんでしょう、オレのケツ」とケツのせいにした。  ビシッ! 「逃げちゃダメだって言ってるでしょ、わからない子ね」  ビシッ! 「ほら、もっとお声を出してごらん」  ビシッ! 「あわわ」  ビシッ! 「もっといやらしいお声を出しなさい」  ビシッ! 「ああーん!」  どんどんムチが強くなっていて、私は思わず「痛ッ」と叫んでしまった。 「痛いじゃないでしょ。何度言ったらわかるのよ」と、翔子女王様の声は本気で苛立っている。業を煮やしたか、ムチと蹴りを激しく繰り返す。  ビシッ! パシッ!(ビンタする音) ゴボッ!(腹を蹴る音) 「余計なことばっかり言うからお仕置きされるのよ」 「ごめんなさい。もう言いません」 「気持ちいいでしょ」 「はい、気持ちいいですぅ〜」  それを聞いた翔子女王様は次々とムチを炸裂させた。どっちにしても叩かれる。痛えよお、痛えよお。ポーズ写真でごまかしておけばよかったよお。  情けなかった。このような姿が情けないのではなく、翔子女王様が懸命に私を調教して下さっているのに、少しも気持ちよくならないことが情けなかった。翔子女王様に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたのだ。 「また苦しいとか痛いって言うと、こうしてお仕置きされるのよ」 「すいませんでした」  私は嘘偽りなく、そう言えるようにはなったりもした。なにやら奇妙な感情だ。私のチンポはプレイを始めてからここまでフニャフニャのままで、時折、その様子を窺うように翔子女王様の視線が私の股間に向かうたび、私の心が痛んだ。翔子女王様の期待に応えたい、なんとか勃起させたいとの気持ちが強くあるが、それよりも痛さや辛さや苦しさの方が先に立つ。  翔子女王様は肛門の調教に取り掛かった。 「ほら見てごらん」  目の前に鏡があり、私のケツ越しに翔子女王様が見える。怖いけど、やっぱり、お美しい。 「どうして欲しいのかお願いするのよ。どうして欲しいの」  私は翔子女王様に喜んでいただけるような答えを探した。 「えーと、お尻に指を入れてください」  翔子女王様は、指にローションをつけて肛門を触る。やがて指が私の中に入って来た。 「おーとっとととととととと」(テープを聞くと、本当に私はこう言っている) 「お前のお尻がどんどん指をくわえ込んで行くわよ。わかる?」 「わかります」  いくら鈍感だとはいっても、そんなことがわからんような肛門でもない。しかし、鏡で見ても肛門が見えるわけではなく、翔子女王様の姿が見えるだけなのだ。ああ、お美しい。自分の肛門なのに、その周辺で一体今何が行われているのか釈然としないのは怖い気もする。私の肛門なのに、もはや私のものではない。  どうも私の肛門は、少しずつではあるが、刺激に慣れてきているようではあり、性感マッサージの時(二六ページ参照)よりもずっと抵抗が少ない。 「今度はこれを入れてあげるわね」  翔子女王様はボールがいくつもついた数珠のようなもの(アナルボールというんかな)を肛門に入れ始めた。 「どんどん入っていくわよ。ほら、ひとつ、ふたつ、みっつ」  運動会の玉入れのようである。 「全部入っちゃった」  紅組の勝ち。 「ステキよ、こんなものをぶら下げて。こうやって調教されていくうちに、お前のお尻はアナルバイブまで入れられるようになるのよ。嬉しいでしょ」 「いやー、別に嬉しくはないけど」 「また、お仕置きされたいの?」 「いえいえ」 「嬉しいんでしょ」 「嬉しいです。嬉しいです。無茶苦茶嬉しいです」  ムチ打ちはもうイヤだし、翔子女王様に気に入っていただきたいとの気持ちもあって、私の反応は過剰だ。 「四つん這いのまま歩いてみましょうね。お前はしゃべり過ぎるから、これをくわえなさい」と翔子女王様は私の口にプラスチックの玉を入れ、また私の上にのった。やっぱり重い。 「もっとしっかり歩きなさい」と尻を叩く。 「ウグウグウグ」  口にくわえたままだと、ヨダレが垂れてきていけねえや。部屋を一周して、ようやく口から玉を外してくれた。  そして、「じゃあ、抜くわよ」と言ったかと思うと、アナルボールを一挙に引っ張り出した。 「イテッ!」  肛門が熱い。私は痔なんですから、もっと優しくしてくれなくちゃ。 「痛い? まだ、そんなことを言ってるの」と翔子女王様はまたムチ打ちをした。 「ああああ、痛くないです。全然痛くないですとも」  八方塞がりである。どうしていいのかわからない。いつまでも気持ちよくならない私に翔子女王様は本気で腹を立てているようでもあった。そこで私は編集者に「しばらく二人にしてくれないか」と頼んでみた。そうすると世界に入り切れるかもしれない、翔子女王様が望む奴隷になれるかもしれないと思ったのだ。翔子女王様も「その方がいいかもね」と言ってくださる。  編集者が出て行って、部屋に二人っきりになった。翔子女王様は、久しぶりの優しい口調でこう聞いてくださった。 「お前は、本当に何も知らないのね」 「はい、何も知らないんです」 「なのにどうして、こういうところに来ようと思ったの?」  翔子女王様は、私から何かプレイの方向を探そうとしているらしい。 「一度試してみたいなと」 「これまでやったのでどれかいいのはなかった?」 「……」  本当のことを言ってしまうと、またお仕置きされるかと思ったのである。 「いいのよ、本当のことを言って」 「ムチは痛いし、お尻は苦しいし、怒られるのはイヤだし」 「恥ずかしい格好しても恥ずかしくないしねえ」 「全然」 「ハハハハ、誰よ、お前みたいなのを選んだのは」 「編集者ですよ。私としても、もしかすると、その気があるかもしれないとは思っていたんですけど、Mっ気ないみたいです。ただ、縛られること自体は悪くないですよ。ほら、子供の頃、自分の体を自分で縛って遊ぶじゃないですか」 「そんなことしてたの?」 「してましたよ。しませんでした?」 「しないわよ」 「あ、そうなんだ。みんな、やっているのかと思った」 「じゃあ、縛られたところを考えて、オナニーをしたりする?」 「全然しない」 「そうなの。ここに来る人は、みんな、そういうこと考えてオナニーするのよ」 「緊縛写真を見ても全然勃起しないですもん。面白いとは思いますよ。世の中、いろんな人がいるんだなあって」 「困ったわねえ。私としてはショックなのよ」 「ごめんなさい、ごめんなさい」と私は床に額をこすりつけた。何としてでもチンポを立たせなければならない。 「普段はどういうのに興奮するの?」 「普通に女と裸になって、いじったり、なめたり」 「奉仕するのが好きなのね」 「そうなんですよ。なめろと言われれば、ケツの穴でもなめますよ」 「じゃあ、なめなさい」  てっきりケツでも出すのかと思ったが、椅子に腰掛け、足を組んだ翔子女王様は、私の目前にハイヒールを差し出した。でも、怖いのや痛いのよりはずっとましだ。ハイヒールから始まって、くるぶし、ふくらはぎ、膝、大腿部をなめる。これはいいっす。 「いい感じね。犬みたいよ」  ああ、翔子女王様が、ダメ男の私を誉めて下さった。本当に嬉しい。翔子女王様はもう怖い女王様でなく、すっかり優しい翔子さんになっている。そして、足を組んだままで、尻たぶまでなめさせてくれた。私は内腿や腰骨など、感じやすい部分をなめようとするが、「そこはダメよ」となかなか許してくれない。ロープを外し、乳のひとつも揉ませてくれれば、きっと勃起するのに。それでも私のチンポの血液は二〇%くらいは増量して、ちょいとは太くなったんじゃないか。  それに気づいたのかどうか、「どうせなら最後にもっとハードなプレイをしましょうか」と翔子女王様は言う。  また翔子女王様は肛門に指を入れ始めた。 「今、指が何本入っているか、わかる?」  私から見えないのをいいことに、指の本数を増やしているらしいのだ。 「えっ、二本ですか」 「そうよ」  確かにさっきよりもきつい。 「じゃあ、これは何本だ」  人の肛門使って、子供みたいなことをやるなよ。 「ウググ、よくわからないけど、きっと三本ですぅぅぅぅ」 「そうよ、お前の肛門は指を三本も入れているのよ。いやらしいわね」  肛門がはち切れそう。 「気持ちいいでしょ」 「気持ちよくはないですね」  さっきの優しい時間にまだ自分を置きっ放しにしていた私は、ついそう答えてしまったのだが、ここで翔子女王様は本気で怒った声を出した。 「いい加減にしなさいよ」と私の頬にこれまでで一番強烈なビンタをくらわせ、これまでで一番きつい口調で怒った。 「わかってるの? 今日はお前が楽しむんじゃないのよ。お前が私を楽しませるのよ」  また元に戻ってしまった。しかし、私は何とかして翔子女王様について行こうと思った。 「ごめんなさい。気持ちいいです」 「気持ちいいなら、もっと気持ちいい顔しなさい」  ここで気持ちのいい顔をするのは、葬式で裸踊りをするくらい難しい。翔子女王様は髪の毛を引っ張って顔を上げさせて、鏡に映した私の顔を見る。私は一所懸命に作り笑顔を浮かべようとするが、タレントさんじゃないんだから、そうそう笑顔など作れない。 「そんな顔じゃなくて、もっとセクシーな顔をしなさいって」 「すいません、すいません」  セクシーってどんな顔かわからない。鏡を見ると、笑っているのか泣いているのか苦しんでいるのかわからない顔をしている。 「ほら、もうお前のお尻は、指が三本楽々入るようになったのよ。これでペニスバンドだって入るわね」  恐る恐る鏡を見ると、翔子女王様は部屋の片隅から赤いゴムかプラスチックで出来たチンポのついたベルトを持ってきた。 「今からお前をこれで犯してあげるわ。どんな気持ち?」と言いながら、股間にそれを装着する。本気なのか脅しなのかよくわからない。本気だとしたら、素人相手にいくらなんでも無謀じゃなかろうか。 「返事は!」 「はい、大変幸せです」  そうでも言わなければ、またまたお怒りになって、無理矢理にでも私の肛門を犯すことだろう。 「あら、そう。幸せなの」と翔子女王様は楽しそうでもある。  私は一体どうしていいのかと途方に暮れた。 「恥知らずのお前だって、こんなところを人に見られるのはさすがに恥ずかしいんじゃないの」  そう言われればそんな気がしてくる。 「ちょっと恥ずかしいかもしれません」  ここで翔子女王様は編集者を部屋に招き入れた。 「今からこれでお前を犯すからね」 「はい」 「ほら、なめなさい」 「はい」  私はプラスチックの赤いチンチンをなめた。 「もっとおいしそうになめるのよ。いやらしく」 「はい」 「もっとペチャペチャ音をたててなめるのよ。そうよ、やればできるじゃないの」 「はい」 「こんな大きなものがお前の中に入るのよ」  無理だと思うけどな。 「ほら、もっと力を抜いて。息を吐くのよ。いつまでもふざけていると、お尻が裂けちゃうわよ」  翔子女王様は、私のケツをつかんで、肛門にチンポの先を当てる。まずい、この女本気だ。大きくて固いものが肛門の中に入ってきた。これまでと全然違う熱さと痛さと圧迫感が体中を走った。女の初体験もこんな苦しみなんだろうか。A子ちゃんやB子ちゃんに悪いことをした。 「ウウッ、ウググググ」 「苦しそうなお声を出しちゃダメだって言ってるでしょ。何度言えばわかるのッ!」と私の背中を叩く。 「ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい」  短時間のうちに、これほど謝ったのは、生涯初めてのことだ。 「もっといやらしいお声を出しなさい」 「あああ、気持ちいいですぅ、ぐぐぐ」 「あら、もう、こんなに入ったわよ」 「あわわわたたたたたた」 「ホホホホホ」  人が苦しんでいるのに笑うな。 「いやらしく腰を突きだしなさい」  ここまで至っても、翔子女王様の意向になんとか沿いたいとの気持ちはまだあるのだが、これ以上は耐えられそうにない。 「早くやりなさい。気持ちいいんでしょ」 「アグアグ、きききもちちちちいいいい」 「だったら、早くお尻を突き出しなさいよ。やらないなら、こうしてやる」と言ったかと思うと、一挙に無理矢理押し込んできた。 「ギャアアアアア〜」  私は絶叫してしまった。 「根本まで入ってるわ。ホホホホホホ。お前はこんなの入れられたことないんでしょ」 「ななないいいいい」 「なのに奥までくわえ込んじゃってるわよ。もっと気持ちよさそうにするまで抜いてあげないから。どうしてそんな痛そうなお顔をしてるの。抜いて欲しくないのね」 「ウググググ」  返事をしようにも激痛のため、唸り以外何も口から出て来ない。 「返事しないと、腰を動かしちゃうわよ。気持ちいい?」と翔子女王様は腰を動かし始める。 「あたたたたた、わかりました、わかりました。気持ちいいです。うう、すごく気持ちいいです、あたたたた」 「あら、そう」と言うと腰の動きを早めた。 「ギャア!」と二度目の絶叫を喉の奥から絞り出し、体を突き刺す激痛に耐えかねて私はその場に倒れ込んだ。ケツを押さえてもがく私に翔子女王様はこう聞いた。 「痛くてしょうがない時はなんて言うの?」  ヘッ? 「やめて欲しい時はなんて言うの?」  はて、一体、何でしょう。 「お許し下さいでしょ」  知らなかった。この言葉はよく聞くが、本当にやめて欲しいときのキーワードだったのである。店によっては「お許しください」と二度言わないとダメだったりもするそうなのだが、いくら奴隷でも、この言葉を言えばプレイをやめるのがこの世界のルールである。それを先に言ってくれなくちゃ。こんなことは誰でも知っているので、あえて翔子女王様も編集者も説明してくれてなかったのだ。 「さっさと言えば、ここまでやられなかったのにバカな子ねえ」  翔子女王様は「全然勃起しないし、すごく苦しそうなのに、お許しくださいとは言わず、聞くと、気持ちいいと言っている。一体これはどういうことか」と思いつつ、プレイをエスカレートさせてしまっていたのだ。そういうことだったのか。どうもヘンだとは思ってましたぜ。 「どう、気持ちよかった?」 「はい」  私は翔子女王様には逆らえない体になってしまっている。 「だったら、また調教されに来るのよ」 「…はい」 「そしたら、また、お尻に入れてあげるわね」 「……はい」  翔子女王様は、また椅子に腰を下ろし、ハイヒールを突き出した。何も言われないまま、条件反射的に私はそれをなめた。だんだん人間ができてきたようだ。でも、お尻がまだズキズキする。 「気持ちいい?」 「気持ちいいです」 「もっと音を出してなめるんでしょ」  唾液を口に溜めてピチャピチャ音を出す。 「ホントにいやらしいお口ね」 「ありがとうございます」とまた少しずつなめる位置を上げていく。 「こういう時だけは幸せそうな顔をするのね」  さっきまでの苦痛に比べれば、今の私はとっても幸せ。でも肛門はズキズキ。 「自分だけ気持ちよくなっちゃダメよ。私を気持ちよくするのよ」 「はい」 「おいしい?」 「おいしいです」  ああ、翔子女王様が目を閉じて、気持ちよさそうな顔をしていらっしゃる。 「とっても気持ちいいわよ」  私は心を込めてなめ続ける。しかし、さっきの衝撃が強すぎてか、全然チンポは立ちそうにない。 「かわいいわよ。そうやっているところがお前には一番よく似合うわよ」 「ありがとうございます」  いい気になった私は、マンコまでなめてやれと思って尻の方からまた舌を滑り込ませようとした。 「何やってんの。そんなところをなめていいなんて言ってないでしょ」と私の背中を叩いた。「もういいわ」  しまった、いいところだったのに。 「最後まで耐えて偉かったわね。ご褒美に聖水をあげようか」  私は二年半以上尿療法をやっていて、人のも一度飲みたいと思っていたのだが、飲みたいと思わせる人があまりいないし、いたとしても飲ませてくれないので、その機会がこれまでなかった。その点、翔子女王様のなら願ったり叶ったりである。 「それは嬉しいです。是非ともください」  翔子女王様は私が抵抗するだろうと予測して、半ば冗談で言ったようだが、あまりに私が積極的なので唖然としている。私は尿療法をやっていることを話した。 「なんだ。じゃあ、やめようかな」 「やって、やって。やってじゃないか、やってくださいか。�お許しください�も言わずに、ここまで耐えたんですから、是非ともご褒美にやってくださいよ」と私は頭を下げた。 「だってやったことないのよ」 「なーにを今更言ってるんですか、女王様が」 「しょうがないわね。でも、これは特別よ。雑誌にもちゃんと書いておいてね。みんなにやっていると思われると困るから」  そんな有り難いものをいただけるなら、喜びもひとしおである。久しぶりにロープを全部外してくれ、身も心も解放された。  そして、さらに私は歓喜した。てっきりトイレでコップか何かにして、それを私が飲むんだと思っていたのに、翔子女王様ったら、下半身剥き出しになられた。ここまで乳のひとつも拝めなかったのだ。この瞬間のために、これまで耐えてきたようにも思えてくる。  私があまりに嬉しそうにするものだから、翔子女王様は「いやだなあ。やっぱりやめようかな」とためらっている。 「ここまで脱いでおいて、それはないよ」と奴隷の身分を忘れた私。  私は床に寝転んで、さあいつでも来いと口を開けた。翔子女王様は立ったまま私の上にまたがる。マンコまる見えだ。楚々とした風情で、この様子から分析すると、すごく尽くすタイプの女性ではないかと私は想像した。 「恥ずかしいから、そんなに見ないで」  完全に立場は逆転である。  勢いよく聖水がほとばしる。口の中に溜まった聖水にさらに聖水が飛び込んで、ジョロジョロジョロと放尿音が響き、匂いが鼻孔を刺激し、飛沫が顔にかかる。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてで聖水を受け取る。チョロチョロチョロと最後のほとばしりが出て、口の中一杯に溜まった聖水をゴックンゴックンと飲み干す。おお、これは美味。体調のいい時の小便の味だ。翔子女王様は健康である。 「お掃除しなさい」と翔子女王様は私の口に聖水のついたマンコを押し付けた。やったぜ。私はついでに膣の中まで舌を入れた。ようやく私のチンポは立ちそうになってきた。さらにはクリトリスもツンツンツンと刺激した。 「アン」と翔子女王様はいやらしい声を出して、「そんなことしたら、感じちゃうでしょ。ハイ、終わりよ」と立ち上がってしまった。  あと一分こうしていられれば、屹立した立派なチンポを見せて差し上げられるのに。 「翔子女王様、もう少し続けさせて下さい」と私はお願いをした。 「もっとお仕置きして欲しいの?」 「いえいえ、それはお許し下さい。ところで、翔子女王様、あの味からすると、体調はよさそうですね」  私がそう言うと、翔子女王様ったら思い切り照れている。かわいいったらありゃしない。暴力をふるったり、怒鳴ったりしなければホントにいい女なのになあ。  結局チンポは一度も立たずに終わった。翔子女王様のプライドを傷つけたのではないかと私はひどく心配している。ごめんなさい。ごめんなさい、悪いのは私です。  体験としては非常に刺激的であったし、耐えに耐えたあとの聖水と秘部のお味は格別のものがあった。しかし、やはりいたぶられること自体に性的な興奮を抱くことは全くできなかった。プレイのあとで、再び優しくなった翔子女王様は「他の女王様としてみれば、うまくいくかも」と言って下さったが、他の女王様であったなら、あそこまで耐える気さえしなかったと思う。  あれから三日、私の体にはまだミミズ腫れが残っているし、ウンコをすると肛門が痛む。しかし、それを見たり感じたりするたび、私の心の中に、ほのかに甘酸っぱい気持ちが広がるのを押さえきれないでいる。もう二度とあんなことはしたくない、私にはMの気がまるでないと確信したというのに、翔子女王様にだったら、もう一度いじめられてもいいと思い始めているのだ。Mの血がようやく目覚め始めたのだろうか。あるいは、私を犯してくれた翔子女王様を愛してしまったのだろうか。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:この原稿には、プレイ最中の写真が大量に添えられていた。ケツも陰毛も丸だしで縛られたり、ケツにいろんなモノを入れられたり、あまりの痛さに顔を歪めたり、嬉しそうに聖水を飲んだり、といった、私にとっては爆笑写真であったが、他人は「松沢もここまで堕ちたか。人事ながら情けない」「ここまで体を張って仕事をやるとは感動した」などといった感想を抱いたようで、この号が知り合いの間で回し読みされたりもした。また、後で聞いたところによると、SM関係者の間でも、「SMの資質がないとは言え、ここまでやるとはあっぱれ」との評価もあったらしい。自分としては、そんな大層なもんとは思っていなかったんですけどね。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:その後、翔子女王様も美姫女王様も別の店に移った。つい先頃、某誌に翔子女王様が出ているのを見てショックを受けた。相変わらずお美しいのではあるが、頬がこけ、眼窩が窪み、やつれた様子でいらっしゃる。 「違う、これは私の女王様じゃない。一体、翔子女王様に何があったんだ」と思わず叫んだ。最初から私のもんじゃないし、店を移ってから名前も変えているんですけども。恐らく今の彼女の聖水はあんまり美味しくないに違いない。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:「ビザール・マガジン」に掲載されたのは、指定文字数を大幅に超えて書いた原稿を削ったものである。単行本には、もともとの長い原稿を収録しようと思ったのだが、この原稿を入れてあったフロッピーが読み取り不能となっていたため、プレイの最中回しっぱなしにしていたテープを改めて聞いて、雑誌掲載の原稿に大幅加筆した。久々にテープを聞き直したら、思い切りマヌケな受け答えをしたり、痛みを堪えるためにただただ「ウググググ」とうなっているだけの時間が過ぎたりで、幾度となく笑ってしまった。翔子女王様も、M男と全然違う反応のために、どう展開すべきか考えあぐねていたり、思わず笑ってしまったり、本気で苛立っていたりする様がまたおかしかった。この取材は本当に楽しかったなあ。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:その後彼女と再会した。一時のやつれは消えて、やっぱり美しかった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 2 はたしてSMは健康にいいのか?[#「2 はたしてSMは健康にいいのか?」はゴシック体]  私は三年前の春より飲尿を実践しており、小便男といった大変名誉なアダ名をいただいたりしている。  私がやっているのはスカトロプレイのそれでなく、尿療法というヤツだ。かといって不治の病に冒され、医者にも見放され、藁をもつかむ気持ちでゴクリとやったのではない。あるいは「壮快」あたりを読んで、健康法を次々と試してみる健康マニアというわけでもない。動機のほとんどは「小便は体に悪くないのか」「小便を飲んで健康になるのは本当か」「小便の味はどんなもんか」「小便飲んで人にバカにされたい」といったような好奇心だ。  真面目にこれに取り組んでいる人たちには申し訳ないくらいに非常に不純な動機で始めたわけだが、小便は偉大であり、こんな私でさえ恩恵を受けている。  飲み始めて間もなく肌がスベスベしてきて、風邪もひきにくくなった。まるでひかないというわけではないのだが、風邪の兆候が表れても、一日寝ればほとんどの場合は治っていたりする。三十歳になる頃から徹夜がきつくなってきていたが、これも再び平気になった。  十年ほど前から尿道炎が持病になり、年に一、二回はチンポからウミを出していて、抗生物質を飲むとすぐに治るので、それほど困るようなものでもないのだが、パンツがウミで黄ばむのと、なんとも言えずチンポの奥がムズがゆいのはあまりいいものではない。しかし、飲尿を始めてからは、一度もパンツを汚していない。ウンコや精液で汚すことはよくあるが、ウミで汚したことはない。たまたま体質が変わっただけかもしれず、確証はないのだが、恐らく小便様のおかげであろう。どうせならウミを流している時に小便を飲めば、その効果がよりはっきりしたのに、と悔やまれる。  最近尿療法についてあまりメディアが取り上げることがなくなってしまったので、結局あれも紅茶キノコのようなものだったと思っている人も多いだろうが、それは小便を飲んでいない者たちの大いなる誤解である。某社や某大学において科学的な研究も始まっていて、ネズミの実験でも既にその効果は確認されたらしく、どうやら癌の特効薬として知られるインターフェロンと関係があるのではないかとの説も出てきている(詳しくは中尾良一監修『新・事実が語る尿療法の奇跡』JICCを参照のこと)。  それはともかくSMだ。いい加減な動機で始め、今だっていい加減であり続けている私でも、このような効果があったのだから、「ホラホラ、オレの聖水を飲まんかい」「ああ恥ずかしい、そんなことできないッ」「そう言いながら、マンコがグショグショじゃねえか」などとやっているSMな方々も、肌がテカテカになっていたりするのではなかろうか。本来は自分のデータが入った自分の小便が一番だが、他人のでもある程度の効果はあるはずだし、Mが自分の小便を無理矢理飲まされるプレイの場合は、より大きな効果が期待できる。  私は東洋医学が好きで、整体や鍼灸による治療をやっている知合いが何人かいる。そういった治療院では、体を温めるという治療法をやっていたりする。お灸だってそうだし、アイロンで肝臓を温めたり、お湯の中に足を入れる方法もある。入浴だって、血行がよくなるなどの効果がある。  と考えると、SMプレイ中にロウソクがうまくツボに当れば、健康になるような気がする。縄がツボに触れたり、ムチが普段使わない背中の皮膚に刺激を与えて血行をよくする可能性もある。SMプレイの針がうまいことツボに命中したら、即座に肩凝りもなくなるってことだ。  そして決め手は浣腸だ。私は宿便を出すために減食したことがあるのだが、宿便出しの簡単な方法としては浣腸がある。腸の上の方に溜った宿便まで出せるかどうかは疑問だが、直腸や大腸の下部に溜ったものに対しては効果があるだろう。この宿便というもの、吹出物や肌荒れ、肥満、便秘といった女性が悩まされる病気をはじめ、胃腸機能の低下、アレルギーなどの原因になるとも言われ、バカにはできない存在だ。一部としても、これが取れるとなれば、健康への道まっしぐらである。  淫靡なものとしてSMを楽しんでいる方々には大変申し訳ないが、こうしてみると、SMは健康法と美容法の宝庫なのだ。長生きできそうですね、皆さん。  とすれば、もっと効率よく健康のためになるSMプレイを開発して、SM健康法として提唱すれば、一攫千金も夢じゃない。『これがSM健康法のすべてだ』という本を出してベストセラー。「痛いけど爽快」というのがサブタイトルかな。  では、このSM健康法の実際を調査してみよう。  まず五反田「カプリース」に行ってみた。M女たちがズラリ六人もいる。アンナ、ひとみ、みゆき、リナ、アリス、ゆかりさんたちで、いずれも二十一歳から二十三歳のピチピチM女である。  最近女王様とは何かと縁があるのだが、M女とお会いするのはこれが初めてだ。  SM界のことをよくわかっていない私は、M女というのは、どこでもすぐにウンコしたり、暇があると剣山でチクチク手を刺したり、電車が来ると線路に飛び込んだりするような人たちかと思っていたのだが、目の前のM女たちはその辺にいそうな女の子たちだ。  こういった女の子たちなら、もっとエッチなテーマの取材にすればよかったとは思うが、一攫千金のためだ、仕方ない。  さっそく私は「この仕事を始めて、体に変化ない?」と質問したが、誰も答えてくれない。しまった、早くも企画倒れか。  企画の趣旨を説明したら、ようやくひとみさんがこう言ってくれた。 「私、肌が荒れました」  荒れちゃ困る。全然こっちの目論みをわかってない。よく聞くと、彼女の肌荒れはシャワーをよく浴びるためであり、SMプレイとは直接関係がない。『これがSM健康法のすべてだ』の巻末に「SMプレイは体にいいのですが、頻繁にシャワーを浴びると肌が荒れることがあります」と注を加えることにしよう。  しかし、健康というのは、意外に意識できないものだったりもする。西洋医学の化学薬品と違って、より東洋医学的なアプローチであるSM健康法の場合は、劇的な効果ではなかろうから、知らず知らずのうちに健康になってしまっている可能性が大である。よくよく考えると、きっと微妙な変化があるはずだ。 「オレの場合は飲尿を始めてから、肌がきれいになったり、風邪をひかなくなったりしたけどな。君たちも、よく考えれば、微妙な変化が体に起きているはずだよ」と私は飲尿を三年近く実践していることを告白した。すると、皆、変態を見るかのような目をして、「エーッ、信じられない」「この人怪しい」「やだぁ」などと言いやがる。  なぜこの私があんたたちにそんな目で見られなければいけないのかと怪訝に思ったが、彼女らは小便を飲んだことがなく、あったとしても、口に含んで吐き出す程度だというのだ。変わってるなあ。そんなことでは、長生きできないぞ。  店長によると、この店には真性M女もいるのだが、今日は来ていないとのことで、ここにいる子たちは、聖水プレイやロウソクプレイはやらないし、そもそもこの店の客は、バイブや縛り、ムチなど、本格的なプレイをやる客も少ないのだそうだ。「ソフトSMでは効果が表れない場合があります」との注も必要だ。  そういうことならと、アナルバイブの快感についてや、ウンコを持ち帰ってコレクションしている客、プライベートでのセックスなどの話を聞いて楽しい時間を過ごした。楽しいのはいいが、私は何をしに来たのか。  その時、遅れて出勤してきたあすかさんがこう言った。 「私、吹出物がなくなりました。たぶん浣腸のおかげだと思います」  よかったぁ、ここに来たかいがあった。好きだなあ、この子。  こうして遂にSMで吹出物が治るという事実が確認されたのである。『これがSM健康法のすべてだ』の第一章は「浣腸で吹出物とサヨナラ」で決まりだ。  しかし、他の子たちは、いくら考えてみても、そのような自覚はないというし、あすかさんに至っては、浣腸のせいで、おなかがすいてよく食べるようになり、そのために太ったという。このように都合が悪い事実も出てきてしまったが、これらは聞かなかったことにする。  着実に確立されつつあるSM健康法をさらに決定的にするために、続いて「カプリース」のすぐ近くにある「ワンノート」にもおじゃました。  こちらはルビー、ダイヤ、アンナさんの三人が待機している。こちらも二十一歳と二十二歳ということで、この世界は若い子が多い。それはいいのだが、この三人も聖水プレイなどはやったことがないという。アンナさんはSM業界に入ってまだ三日目ということで、変化も何もあったもんじゃない。第二章のタイトルは「SM健康法は三日じゃわからぬ」である。  しかし、ルビーさんがこう言ってくれた。 「私はもともと極度の便秘で、一週間か二週間に一度しか出なかったんだけど、この仕事を始めてから、二、三日に一回は出るようになりましたね」  やったぁ。ルビーさんも大好きだ。しかし、よーく考えてみれば、浣腸したらウンコが出るようになるのは当り前、「浣腸するとウンコが出るのだ!」と世に問いかけても誰も驚いてはくれまい。しかも、便秘がひどかった頃でも、特別おなかが張ったり、肌が荒れたりということはなかったので、他の部分での変化はとりたててないという。 「ただ、便秘時代は、冬とかに、どうしても痔になっちゃったりしていたんですよ。それがなくなりました」  ちょっと無理があるが、第三章で「SMで痔が治る」と世に問おう。これは便秘が治るためだけでなく、アヌスにバイブで刺激を与えることで血行がよくなるために違いない。そうに決まってる。  アナルプレイのせいで肛門が荒れるのじゃないかとの気もするが、だいたい入れるのはアヌス用の細いバイブだし、無茶苦茶なことをする客はあまりおらず、ローションを使ってゆっくりもみほぐしてから入れるので、肛門が切れたり、肛門が緩くなってパンツを汚しがちということはないとのことだ。  私のような素人にあんなぶっとい張型を入れた翔子女王様はやっぱり乱暴者ですぜ。  ルビーさんはさらにこう続けた。 「それと、少し痩せたかもしれません。浣腸のせいかなあ」  ダイヤさんがこう補足してくれた。 「普段しない格好とかさせられるでしょ。犬になってシッポを振れとか。そうすると、おなかとかのぜい肉がとれたりするみたいですよ」  ダイヤさんもいい子だなあ。SMでスタイルもよくなるのだ。完璧なデータといえよう。第四章「SMで初めて知る体の軽い私」。  今日は収穫が多かった。元ソープ嬢もいたのだが、彼女の話では「ソープ時代は肌が荒れて、ガサガサでしたし、性病をうつされたりもして大変でしたよ。ソープに比べると、SMはうんと健康的です」とも言った。「ソープに比べて」の部分はカットして、あるSM嬢は「SMは健康的です」と高らかに宣言したことにしよう。  また、どっちの店も性格のいい子が多かったが、これも本人の知らぬところで、体が健康になり、それが精神面に反映されたものと思われる。第五章は「SMで明るく開ける未来」だ。  たった十人に聞いただけで、五章分の台割りが早くもできてしまった。この調子でSM関係者に取材すれば、「ムチで治った末期癌」「羞恥プレイで頑固な喘息を克服」「逆さ吊りで百メートル十秒一の記録が」「データが物語るSM体験者長寿の証拠」「親子三代が語る性器ピアスによる家庭円満」といった数々の実例を集めることができよう。文句あるか。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:思いきりくだらないが、私としては半ば本気である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 3 SM娘にとってのSEXとは?[#「3 SM娘にとってのSEXとは?」はゴシック体]  前回、「SM健康法」で革命的一石を投じたわけだが、話を聞いているうち、健康法よりも、それ以外の話に私は興味を抱き出し、改めて話を聞いてみる必要がありそうだと思った。そこで今回は「SM嬢の仕事とプライベートのセックス」というテーマで話を聞いてみることにした。  まずは私の最初のSM体験をお導きになった翔子女王様である。久しぶりにお会いできる喜びに身をうち震わせながら「ラビリンス」へおじゃましたのだが、翔子女王様は都合が悪くなったという。なんてこった。  その代わりに出ていらっしゃったのが亜里寿女王様だ。亜里寿女王様も大変お美しくていらっしゃる。私の好みを見抜いているかのようなこの人選、ラビリンスさんたら、やってくれるものだ。 「女性誌に出ているファッション的なSMの記事とかを読んで、興味をひかれたの。映画『トパーズ』で初めてプレイを見たら、いよいよ興味をかきたてられた。だから、この道に入ったのは興味本位の好奇心なんだけど、いざやってみたら、�これだ!�って思いましたね」  美しい上に、ひとたびプレイに入ったら、さぞかし恐いであろうことも想像させ、始めて二カ月とは思えぬ貫禄である。 「もともと、そういう要素はあったんだと思う。普段の恋愛でも、好きな相手が冷たかったりすると、うまくいかない恋に酔う。これはMっ気のようにも思えるんだけど、厳密に言えば、Mというより、ある状況を設定して、そこに浸るのが快楽なのね。それと、以前は意識していなかったんだけど、性格を普段抑えていることにも気づいた。女王様をやるとこれを発散できるのよ」  どうしたって女性が積極的に発言したり、行動したりということがこの社会では認められにくい。その欲望が、女王様という立場を得た途端に表に出てくるということだろう。 「私、これ、風俗だとは全然思ってないのよ。私の場合、女王と奴隷という設定に浸ることがいいのであって、性的な快楽とはちょっと違う。だから、女王様をやり始めてからも、普段のセックスに変化はない。そういう普段の自分というのがあるからこそ、女王様の自分が成立するし、ある時間の中で設定された枠組があるからこそ、女王になり切ることができるんじゃないかしら」  私は最近女装に凝っているのだが、女装してチンポが立つわけではない。しかし明らかな快楽なのである。彼女の快楽は、私の女装に質が似ているかもしれない。 「正直な話、今でも�蹴られたり、打たれたりして、なんで立つワケ?�というところがある。そういったところを含めて、すごく今は面白くて、�よかった�と言ってくれるとすごく嬉しくなって、相手をもっと遠くに連れてってあげたくなる。宗教なら教祖、カウンセリングならカウンセラー、SMなら女王様ってことよね」  とにかく生き生きと語るのが印象的な亜里寿女王様である。その辺のOLじゃ、これほど生き生きと、情熱を持って仕事をやっているのは少ないだろうし、自分がその仕事をやっている意味をこれほど冷静には語れないんじゃないか。 「こっちがちゃんとしていないと連れてってあげられないから、まだまだこれから勉強しなければならないと思っているの」  とても勉強熱心、仕事熱心である。 「向き、不向きはあるけど、女の子の誰しもが、多かれ少なかれ女王様的なものに憧れるところはあるんじゃないかと思う」  もし、今後、性的な意味でもSMに目覚めてしまったらどうする? 「そのまま突っ走りますよ」 「ラビリンス」に行った翌日のことである。「浅草橋ヤング洋品店」などなどでおなじみの浅草キッドに会った。彼らは、「ワイルドキャットに行った方がいい」と勧める。お笑いの世界では、ちょっとしたワイルドキャット・ブームとも言える状況なのだそうだ。 「これまでの人生で体験したことがないくらい素晴らしかった」「これから、宣伝資料の趣味の欄にSMクラブと書く。芸能人の究極の趣味はゴルフクラブだが、俺らはSMクラブ」などと口々にそのよさを語る。  ふと、気付けば、私がその翌日に行くことになっていたのが、ワイルドキャットだったのである。ここには「性感Xテクニック」でおなじみの南智子先生がいらっしゃる。  浅草キッド情報によると「非常に美形で、お笑い界での評判も高い」とのルイ女王様にまずは話を伺った。なるほど、お美しい。 「ここに来る前にも、いろいろな風俗をやっていたんですけど、体を触られるのがイヤだったし、もっと自分でも楽しめるところはないかと思っていたんですね。それでイメージクラブに行った。ここは客次第で面白かったり、つまらなかったりが全然違う」  彼女の快楽は、自分の幻想に入って行くことにあるようで、この幻想を共有できる客なら彼女も楽しめるのだ。 「男を犯すイメージが好きなんですが、これまで普通の生活をしている中では気づかなかったんですね。この店に来てそれが目覚めた。自分自身がすごくスケベになって、探究心が半端じゃなく出てくる」  とすると、プライベートにも影響がある? 「もっといろいろなことを試したい。好きな男を犯したいと思ったりすることもあるし、セックスで自分が主導権を取りたいとも思うんだけど、実際にはまだ実行はできてない。そういうのって、なかなかできないですよね。その意味では、プライベートでのセックスに満足していない自分を自覚するようになったかもしれない」  私の周辺の女性たちに聞いてみても、女性の中には、相手をリードしながら、積極的にセックスをしたいという気持ちがあるようだ。こういった女性の願望を満たしてくれるのが女王様という立場なんだろう。 「仕事と割り切っている部分がないわけじゃないけど、他の仕事みたいに、すっきりすべてを割り切れるわけでもないですね」  いよいよ浅草キッドが師と仰ぐ南先生の登場だ。 「なんだかうちはお笑い系の人に強いのよね(笑)」  浅草キッドによれば、彼女はやたらと言葉によるプレイが上手だということだが、普段のしゃべりも魅力的で、頭の回転のよさが窺える。 「私は仕事もプライベートも一緒ですよ。このままやっているだけで、仕事の意識は全くない。もし私が客だったら、女の子が本気になるのが嬉しいと思うんですよ。だから、�仕事が早く終わって帰りたいなあ�なんて思うより、私自身が本気になることが一番ですよね」  さすがである。 「私は幼稚園の時からマスかいていたんですよ」と南先生は股間をこする手つきをした。「マンガの登場人物や近所のおにいちゃんを妄想の中でいじめたり、実際に男の子を縛って遊んだりもした。でも、十代の頃にはさすがに悩みましたね。私に合う相手を探したりもしたけど見つからないし、女として異常なのかと思い、自分を抑えて普通になろうと努力もしました」  南先生ですら苦悩の時代があったのだ。 「ソープで働いている時も、あんまり燃えなかった。もちろんクリトリスを刺激されればイケたりはするけど、気持ちは満たされなくて、つまんなかった。だから、この頃は相手の人に対してもウソをついていたことになるんだけど、今はもう何もウソはない」  南先生は自分の性をこう語られる。 「男っぽいセックスって言われるけど、自分では男っぽいとは思っていない。これもメスの本能だし、女の性だと思う」  積極的に性を求め、自らの欲望に忠実であることは男にだけ許され、女は男の性に忠実であることが美徳とされる文化の中では「男っぽい」と思えてしまう。本当は、南先生のおっしゃるように、女にだってそういう気持ちがあるということに過ぎないのだろう。 「私と同じような欲望を持っている女の子はいっぱいいると思う。でも、それを出せない。よっぽど遊びまくっているか、頭のおかしい女と見られるんじゃないかという恐怖が女の子にあって、男に好まれるかわいい女を演じてしまう。私はバカだから、全部言っちゃうけど、普通は賢いから言わないのよね」  これは男にだって言えることだ。 「そうですよね。支配されたい欲望を持っていても、男の人は男の人で言えずに、こういうところに来るしかないんです」  彼女はどうも同性愛的なところがあるようにも見える。このことは、別の機会に詳しく聞いてみることにしよう。  ワイルドキャット三番手はチハル女王様だ。彼女は肉感的で、おっぱいがチラリと見えたりして、私はちょっと興奮した。 「ここはスケベSMだから、プレイの時は全部脱ぐんですよ」  エッ! そうだったのか。SMクラブっつうところは、女王様の裸を拝めないところだと思っていたのに、裸を見せていただけるですか。縛られてもムチで打たれても勃起しない私だが、この話だけでチンポ立ちそう。乳を見ただけでは普通はチンポ立たないが、乳すら見せないと思っていた女王様が乳を見せるのは、ギャップが大きい分、チンポもおっきくなりがちだ。 「姉がここで働いていて、姉と入れ替わりに私が入ったんですよ。やり始めたら楽しくて楽しくて」  素っ裸になってサービスしてくれるか。もう私ったら、仕事を忘れて、このことで頭いっぱい。 「もともとセックスに対する欲望は薄いということがあるんだけど、セックスよりも、ここでのプレイの方に満足感をおぼえる。どうせなら好きな男にやった方がいいだろうから、プライベートでもやってみたいというのはあるけど、それを出すとまずいと思って抑えちゃう。つい自分でリードしそうになって、引いたりすることもありますよ」  やはり彼女もそういうタイプだったのである。それにつけても全裸でプレイかあ。 「学生の頃は、下級生の女の子をいじめたりするのが、すごく好きだった。性的欲求が、そういう形で出ていたのかもしれない。今はお客がいい子で、スケベな声を出してくれると、すごくやりがいがあるし、私も感じる。反応がよければよいほどいいから、思い切り声を張り上げてくれるとやりがいがあるし、こっちも本気になっちゃいます」  ルイ女王様も声については同様のことを言っていた。男はもっと声を出すことで、より大きな快楽を得る努力をすべきかもしれない。 「この仕事を始めてから、どんどん加速がついていて、ハードになっているのがわかる。最後の最後まで私はこの道を進みます」と、彼女は本当にこの仕事が楽しそうである。  最後の明日香女王様は、この仕事の前、保母さんをやっていたそうである。 「セックスが全然好きじゃなくて、もう一年以上してません。最初にセックスした時に少しも濡れなくて、その時からおかしいと思っていたんです。私は小学校六年からオナニーしていて、そのイメージの中では、いつも積極的に男の人を愛してあげる。でも、普通のセックスで、ただ受身でいても面白くもなんともない。もっと男の人を積極的に愛したいと保母さんをやりながらも、ずっと本当の自分の性を求めていました。それで、ここに来て、ようやく自分のセックスを発見できました」  今は濡れるようになったんだろうか。 「プレイの時は、いつも濡れてます。ここでは本当の自分でいられますから」  しかし彼女は、ムチで叩いたりすることには興味がないという。 「相手を縛るのは、私が男を自由に愛するためで、苦しめたいというわけではないんです」  さらに彼女はこんなことも言った。 「私はオチンチンが入る穴が自分にあることさえ許せない。でも、男になりたいというのでもない」  これは興味深い話である。ことによると、セックスに対する恐怖や嫌悪の裏返しみたいなものがあったりするんじゃないかとも私は思い、彼女もそれを否定はしなかった。  もっと追及してみたいところだが、今回は時間切れである。  取材用のコメントであることを差し引いても、今回聞いた話の中に、彼女らの真実がなにがしかはあると思うし、それぞれに共通した要素がある。モノホンのSMファンは「彼女らのような女王やM女は真性ではない」などと言うのかもしれないが、今の社会では満たされない欲望を抱き、女王という職業が、それを満たしていることに嘘はなく、単なる仕事と割り切っているわけではなさそうだ。私にとっては、予想していたよりも、ずっと刺激的な話が聞け、性を考えるにおいて非常に参考になった。  そして彼女らが共通して、自分の性を把握し、それを堂々と語ってくれることが嬉しくもあった。私はこのような女性に、ある種の尊敬の念を抱き、愛情も感じる。SM嬢の話を聞いていると、いちいち恋をしちゃいそうになるっす。SMという、世間一般からいえば特殊な欲望を持つ人間なら、常識からハミ出た分、自分の性を客観的に見つめざるを得ず、この世界に入るには一定の決意をしなければならない。入ったら入ったで人間の欲望を極端な形で見て、いよいよ性の深淵を知ることになる。こうして、セックスを、あるいは自分を語る言葉を持つことになるということなのだろう。  彼らの正直さに比べて、普通と呼ばれる人々がいかに不正直であることか。自分自身を騙している人でさえいたりして、そういった人ほど性について語ろうとせず、見ようとしなかったりもする。男も女ももっともっと自由で正直であるべきだと私は実感したのであった。 [#ここから2字下げ] 追記[#「追記」はゴシック体]:当然のことながら、こういった店の女の子は出入りが激しいので、ここに出ている女の子が現在も働いているかどうかは定かでない。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:ワイルドキャット自体、既にない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 4 M女・美菜ちゃんとアヌスで実験[#「4 M女・美菜ちゃんとアヌスで実験」はゴシック体]  肛門はウンチに満ちているが、しばしば謎にも満ちている。肛門にチンポを入れて気持ちいい人もいれば、肛門にチンポを入れられて気持ちいい人もいる。これが私にはわからない。人の肛門にチンポを入れたい欲求はなく、自分の肛門にチンポを入れられたい欲求もない。肛門に指を入れられて前立腺を刺激されても、別段気持ちよくない。あれこれ体験はしているから、そろそろチンポを入れても大丈夫なくらいには鍛えられ、いざという時のために五百円玉の束を常時肛門に入れておくと便利だとは思うが、私の場合、肛門をどうしようと性的快楽には全然つながりそうにない。  そこで今回は、アヌス挿入好きの女性の肛門に、いろいろなものを入れながら、その快楽を徹底的に聞いてみようという趣旨である。  藤木美菜ちゃんは、SMクラブ「レッドスコーピオン」で働いているM女で、ビデオにも数本出ており、雑誌の登場も多い。編集者によると、ハードなことを厭わず、性格がよいので、業界での受けが非常にいいとのことだ。  待ち合わせ場所にやってきた美菜ちゃんは、ボディコンに身を包んだ肉感的な女性だった。車についてはとんと疎いので、それがなんという車かわからないが、相当高いことぐらいは、こんな私にもわかる。それはもう立派な彼女の車に同乗して撮影場所に向かう。 「お金は随分貯まりましたね。でも、この仕事が好きだからやっているだけで、別にお金を貯めて何かやりたいということでもない。いまさら他の仕事もできないし、ずっと続けるしかないんでしょうね」  車の中であれこれ話したのだが、なるほど、おっとりとした素直な女性だ。ずば抜けた美人というわけではないが、妙にそそる色気があり、どこか寂しげなところもある。  アヌス実験所に着いてすぐに浣腸をすることになった。その前に、オシッコがしたいというので、放尿も見せてもらうことにする。服を脱いで、豊満な肉体を晒す。柔らかそうな大変いやらしい体である。全裸になった彼女は、風呂場で洗面器に跨がる。間もなく、チョロチョロと黄色い液が出始めた。  女性の放尿は、今までにも何度か見たことがある。最初はもう十年ほど前になろうか。女がうちのトイレに入った時、無性に見たくなって、突然トイレのドアを開け、「ちょっと見せろ」と迫った。女は抵抗したが、既に放尿は始まっていて、急には小便を止められない。足を無理矢理こじあけたが、小便が出ているだけだ。当り前である。「わかった」と言って女の股を閉じ、そのまま、何事もなかったようにトイレを出た。  しかし、今回、美菜ちゃんの放尿を見て、放尿は前からでなく、後から眺める方がよいことが判明した。尻の山とマンコのヒダを越えた向こうに聖水がほとばしる様は、枯山水めいた風情があり、小便が尻を伝うのも、もののあわれを感じさせる。  そして浣腸である。キュッとつぼんだ肛門にエネマシリンジの先を入れ、グイグイと液を押し込む。どんどん入る。抜く際に、キュッと肛門を締め、液を垂らさないようにするのが彼女の律儀な性格を想像させる。  あっという間に三本入って、美菜ちゃんは洗面器にしゃがみ、我々は後でその瞬間を待つ。彼女は生理前なのだが、生理前はウンコの出が悪くなったりするとのことで、今日もなかなか出ない。「うーん」という、いきり声がいやらしい。頑張れ、美菜。  しばらく力んで、ようやくウンコが垂れてきた。その直後、ブチブチブチ、ジュルジュルジュルと黄色い水が洗面器に落ち、飛沫が散る。私は思わず、「たまやぁ」と呟いた。  一九七四年から七五年にかけてアメリカの雑誌「レッドブック」が調査したところによると、二十五歳から三十四歳の既婚女性の、なんと四三%がアナルセックスの経験者であった(『レッドブック・リポート』講談社)。そして体験者の四割が「気持ちよかった」と答えている。『最新キンゼイ・リポート』(小学館)にも、アメリカ女性の三割から四割がアナルセックス体験者と書いてある。アメリカ人というのは、なんでもかんでもやってみたがるヤツらである。  アメリカ人にアナルセックス体験者が多いのは、様々な文化的背景も関わっていそうで、日本だと、さすがにこれほどの数字にならないのじゃないかとも思うのだが、知合いに聞きまくってみると、簡単にアナルセックス体験者を見つけることができる。 「痛いだけだった」というのもいるが、アナルセックスによって快楽を得られたという女性も少なくないことに驚かされる。あるいは、前立腺への刺激で、通常の射精の何倍もの快楽を得たという男もいる。日本人も、なんでもやってみたがるものだ。  私の場合、アヌスで快感を得られるのは、せいぜい脱糞の時だけだ。とりわけ下痢気味の時に、ウンコが肛門から顔を出しそうになるのをジッと我慢してトイレに駆け込み、バリバリバリバリとマシンガンのようにウンコした時、「ああ生きていてよかった」と心から思う。  先日、友人のY君と脱糞の快楽について話していたら、Y君は私にこう言った。 「ホントにウンコするのを我慢するのは気持ちいいよね」  気持ちいいのは我慢することじゃなくて、ウンコを出すことだと思うのだが、ウンコを出す快楽を高めるために我慢する気持ちはわからないではないから、私はY君に相槌を打った。すると、Y君は続けてこう言った。 「特にさぁ、四つん這いになって我慢すると気持ちいいよ」 「お前、そんなことまでやってんの?」 「やってるよ」  これはわからない。私はウンコをするのが好きだから、家にいると、まださほど腸にウンコが溜まっていないうちから便所に行ってウンコする。一日一回というのでなく、思いつくたびに脱糞するのだ。しかし、いつでも便所に行ける状態にあったとしても、Y君は腹が痛くなるまでウンコを我慢する。もうダメだというところになると、裸になり、床に新聞を敷いて、その上に四つん這いになる。そのうち、限界になってウンコが肛門からポロリと落ちる。彼は、このくらいウンコを我慢するのが好きなのだ。  こんな趣味はY君だけかと思ったら、知り合いの女の子にも同じ趣味があるのがいて、彼女もわざわざ新聞紙を床に敷いたり洗面器を用意して、延々ウンコを我慢する。そのうち気持ちよくなってきて、ウンチを漏らしながらオナニーをするのだそうだ。ウンコしたくなるために、一人で浣腸をすることまであるというから本格的な脱糞マニアだ。いろんな人がいるってことである。  しかし、美菜ちゃんは、ウンコするのに特別の快楽はない。彼女は、クリトリスに一切触れず、アヌスへの刺激だけで達することもあるというから、それに比べれば、脱糞の快楽などたいしたことはなかろう。知り合いの女の子のように、脱糞しながらオナニーするのはいても、脱糞そのもので達する人はさすがに聞いたことがないもんね。  ウンコがたまった状態でアナルセックスをすると、ウンコが圧迫されて便意を催したり、腹が痛くなることもあるので、彼女自身にとっては、あくまでそれを避けるための浣腸であり、快楽のための浣腸とは意味が違う。  本日は、あまりウンコの出がよくなく、さらにイチヂク浣腸を何本も入れたが、汁状のものが出るばかりだ。私は爆発するような脱糞に備えて、念のためにレインコートを持ってきていたのだが、使う機会がなかった。結局、出切らないまま、ウンコが邪魔しないことを願ってベッドに場所を移すことにする。  美菜ちゃんは、ベッドの上で肛門を突き出す。昼の光のもと、このように肛門を凝視したことはない。正確には自分の肛門を鏡に映して凝視したことはたびたびあるので、他人の肛門をこれほど間近に見たことは初めてということである。もちろん、真っ昼間から、女にこのような格好をさせたことはいくらでもあるんだが、どうしても、私の意識はマンコに向き、肛門への意識は薄くなってしまう。  しげしげと見ると、女の肛門はきれいなものだ。男はもっと色素が沈着し、周辺に毛がモジャモジャ生えている。男の肛門もあまりよく見たことはないので、ここで言う男の肛門というのも主に自分の肛門のことである。たまに肛門にまで毛が生えている女もいるが、美菜ちゃんのは毛がなく、形も均整が取れ、色も黒ずんでいない。  肛門を日々見ている「S&Mスナイパー」の編集者たちによれば、女の子の肛門が必ずしもきれいというわけでなく、痔であったり、形が崩れているケースも少なくないそうで、美菜ちゃんの肛門はランクが高いという。A級肛門である。 「きれいな肛門と言われるのは嬉しいです」と美菜ちゃん。  彼女はM女として、日々、アナルセックスをいたしているのだが、別段、肛門に気を使っているわけでもない。 「でも締める練習はしています。一日三回アナルセックスをすると、三人目は�あまり気持ちよくない�って言われたりする。ショックですよ」  よく聞く話だが、あまり酷使すると、肛門が開きっぱなしになってしまい、ひどい時にはウンコが垂れ流しになったりすることもある。それを防ぐための訓練だ。  では、まずは、その華麗な肛門に指を入れさせていただき、快楽の所在地を探してみることにしよう。ローションをつけてまずは指一本を挿入して少しずつほぐしていく。中は思ったよりも入り組んでいる。 「最初は指一本を入れるのも大変でしたけど、今はもう全然平気です」  何事も慣れである。あちこち指を動かしてみると、彼女はためらわずに、「オマンコ側が感じる」と答え、後壁は痛いという。前壁がいいのは男の直腸と同じだ。男の場合は前部に前立腺があるから、そちらが感じるのは当然である。  しかし女性の直腸にもはっきりと快楽を感じる場所、そうでない場所が存在するのである。そして美菜ちゃんが、直腸の前部が気持ちいいというのは、皮一枚隔てた膣内のGスポットを刺激するためのように思われる。  肛門と膣に指を入れてみるとわかるが、膣と腸の間の皮は非常に薄い。厚手のギョーザの皮ほどである。「ヴァギナとアヌスの快楽は同じ。お尻の穴そのものが気持ちいいんじゃなくて、オマンコが気持ちよくなる」と彼女は言う。直腸内には感覚器官がないのだから、当然ではある。いくら皮が薄いとはいえ、それでも膣から刺激する以上に距離があるのだから、腸からのGスポットへの刺激はある程度の力が必要であったりもするようだ。  それはそうと、肛門に指を入れていると、括約筋によって時折肛門部分がキュッと締められる。しかし、奥は意外に広くて温かく、肛門の中に指を入れることは存外に心地よい。下手なマンコよりも、アヌスの方がうんと気持ちがよかったりするのかもしれない。ただし、締まるのはあくまで肛門だけだから、亀頭周辺への刺激は物足りなさそうでもある。未だ他人のアヌスへの挿入未体験の私だが、一度チンポを肛門に入れてみる必要がありそうだ。  次にアナル棒を挿入してみる。こちらは硬くて、あまりいいものではないというので、早々にやめた。ある程度の刺激が必要だが、触覚が硬いとよくないものらしい。  美菜ちゃんは公称二十三歳だが、アナルセックス体験は四年前に遡る。当時つきあっていた男がアヌス好きで、ゼリーもローションも何もつけずに、彼女のアヌスに無理矢理挿入した。その時は、「痛くて痛くて二度といやだ」と思った。しかし、三年前に、店で働き出したら、アナルセックス希望の客が多く、断り続けていた彼女に、店の女の子たちは「大丈夫、そんなに痛くないからやってみな」と言う。  そして、その助言を信じて二度目のアナルセックス体験をすることとなる。 「そのお客さんが上手で、ものすごく気持ちよかった」  彼女はここで初めてのオーガズムを得た。それまで彼女はクリトリスを刺激してのオナニーで達したことはあったが、セックスでのオーガズムは体験したことがなかったのだ。 「今までで一番気持ちがいいアナルセックスは、その人だったかもしれない。その人と出会わなかったら、たぶんアナルセックスは二度としてなかったでしょうね」  肉体的な快楽としては、回数を重ねるほど強まっているのだが、その時は、達することができた嬉しさが快楽を増した。こうして、彼女はアヌスに目覚め、ヴァギナへの挿入はまるでやらなくなってしまい、アナルセックスだけの女となった。  アナル棒の次はアナルバイブを入れてみよう。編集部が用意したいくつかのバイブの中から、自分で愛用しているものよりちょっと大きめのバイブを彼女は選び、それを挿入する。これもすんなりと入る。スイッチを入れた。 「先端の動きが気持ちいい」と美菜ちゃんは、目を閉じて艶っぽいため息を出し始め、快楽に身を委ねる。このまま達したりするんじゃないかとも思うが、彼女はバイブで達したことは一度もない。 「やっぱりバイブよりもオチンチンの方が好きなの」  もちろんここには精神的な要素もあるのだろうが、それだけでなく、物理的にも彼女はチンポが好きである。チンポの方が柔らかくて、ほどよい刺激を得られるのだそうだ。  すっかり目つきがトロンとしている彼女のアヌスからバイブを抜く。バイブとともに、ウンチ汁が垂れてきた。しかし、不思議なもので、それほど汚いという感じはない。  私が飲尿を始めてから三年以上、もはや小便が汚いとは全然思えなくなっているように、ウンコが汚いというのも、学習によるものが大きいのだろう。腸内細菌がいっぱいいて、本当に汚いのではあるが、それ以上に、観念こそがウンコに嫌悪感を抱かせている。その辺のオヤジのウンコはやっぱり汚いが、このようにかいがいしく実験に協力してくれている女性のウンコを汚いと思ったらバチが当る。  しかも、いじくっているうちに、彼女の肛門がかわいくさえ思え始めた。ソッと指で触れると、ピクッと肛門が閉じる。この様が健気である。  続いて入れたパールのついたバイブだが、これは痛いという。震動はローターのようでいいのだが、これも硬さがダメなようだ。  柔らかければいいのかというとそういうものでもなく、ゴム製の拡張器は「痛くて苦しい」と彼女は拒絶した。これは彼女にとって初めての挿入体験なのだが、中で膨らませると、腸が圧迫されて、腹が痛くなるようだ。これが痛くて苦しいのは、ウンコが出切っていないためかもしれない。 「やっぱり一番いいのはオチンチンですよ」と彼女は言う。  バイブの中では膣用のものよりアヌス用のものが好きで、それは太さが適度であるためで、大きなバイブだと、どうしても硬い印象がある。一方、チンポは大きくてもさほど苦にはならない。しかし、うまくGスポットを刺激するためには、柔らかすぎても用をなさない。硬すぎず、大きすぎず、融通もきくチンポはさすがによくできている。 「オチンチンは話のわかるヤツですよ(笑)」と美菜ちゃん。  彼女と話していて、不思議に思ったことがある。肛門の快楽がGスポットを刺激することなのだとすると、何も膣への挿入をやめる必要はなく、前も後もOKというお得な体になれるのではないか。  なぜ、アナルセックスに目覚めた彼女が膣への挿入をできなくなってしまったのか。ここには彼女の特異な体験が関わってくる。彼女がアヌスに向ったのは、そして最初にアナルセックスで達した時に感激したのは、彼女がそれまでセックスに嫌悪を抱いていたためだった。  彼女は子供の頃、性的イタズラをされた体験を持つ。 「最初は幼稚園の時で、相手は近所のおじさん。どこの誰かわかっているけど、怖くて誰にも言えなかった」  小学校の時には誘拐事件もあった。車に連れ込まれて、どこかに連れていかれ、車の中で男がオナニーをするところを見せられた。男が射精したスキに彼女は車から逃げ出した。そして、中学の時には二人の男に犯された。これが初体験だった。  レイプ体験者によくあることだが、以来、彼女は次々に男とセックスをするという時期を経る。これはレイプによる傷を癒す行為である。 「やりまくってる子は、いつかはいいセックスができるんじゃないかって探しているんですよね。私がそうだった。友だちが、�セックスは気持ちいい�と言っているのを聞くと、羨ましくてしょうがなかった。でも、誰としてもダメだった」  数をこなしてもいいセックスなど簡単にできるものではない。また、多くのレイプ体験者がそうであるように、やりまくることでセックスの意味を軽くしようとの切なる願いがここには込められている。自分がされたことなど、たいしたことではないと思い込むために、簡単にセックスをするわけだ。彼女らにとって、セックスはくだらないもの、些細なもの、取るに足らないものでなければならず、そのような姿勢で臨むセックスがいいものであるわけもない。 「セックスすると、レイプされた時の思いが蘇ったりするんです。今でも正常位でやろうとすると痛くなるのは、どこかに精神的な恐怖とかがあるためかもしれませんね」  アナルセックスはセックスではないため、そのような恐怖や嫌悪がはずれ、彼女は初めて達することができたようだ。彼女にとって、アヌスで達したことは、レイプ体験、そしてセックスを楽しめない自分へのコンプレックスや苛立ちを解消することとなった。だから、彼女にとって、アヌスであれなんであれオーガズムを得たことは、一般の女性にとっての初体験に匹敵するような貴重で深い意味を持つことだったのだろう。  クリトリスへの刺激をしていいかと聞くと、彼女はそれを承諾してくれた。ホントに、素直な子だ。こういう子をレイプしちゃいかんな。こういう子じゃなくてもいかんけど。  彼女は仰向けになった。この方が感じやすいのだという。「恥ずかしい」と彼女は呟いた。機械的に実験をしているからいいようなもので、あっちが恥ずかしがると、こちらも照れくさいし、チンポだって立ちかねない。  彼女が持参したバイブをアヌスに入れ、パールローターをクリトリスに押し付ける。 「気持ちいい」と彼女は何度も繰り返した。こっそりヒダを開くと、クリトリスが勃起している様がわかり、膣内も色づいている。  このままいけば、彼女は辛抱たまらず私のチンポをしゃぶり始め、そうなりゃ、滅多にチンポの立たない私とて臨戦態勢に入り、めくるめく快楽の時を過ごせるんじゃないかとも思ったのだが、「おなかが痛くなってきた」と彼女は言い始めて中断した。ウンコが圧迫されているようなのだ。プレイの前に、やはりウンコは出し切らなければならない。  彼女はまたトイレに向った。  彼女には、もともとSMの気があって、SMクラブに入ったのも、アナルセックスを求めてでなく、M的な快楽を求めてである。小学三年生からオナニーしている彼女だが、今でもしばしば強姦されることを考えたりするという。 「そのイメージやM的な快楽はレイプ体験が関わっている?」と私が聞いたら、「うーん」と相当長い時間悩んでから、「そうかもしれないね」と答えた。 「男の人のオチンチンが勃起しているのや射精するところを見るのがすごく好き。もしかすると、車の中で見せられたオナニーの記憶かもしれない」  そんなことを話しながら、股を広げたままの彼女は、枝毛を探している。 「おい、今、枝毛を探していただろ」 「バレた?(笑)」  レイプの話をしながら枝毛を探しちゃいかんな。 「でも前は、こういうことを全然話せなかったんですよ」  彼女がレイプ体験を語れるようになったのは、僅か数カ月前のことだ。今年の春、彼女は代々木忠監督の作品に出た。逆行催眠によって、彼女は子供の頃の体験、レイプ体験を初めて人に語った。そして、ビデオの中でセックスをして、初めてヴァギナへの挿入で達することができた。アナルセックスに遅れること三年である。 「その時の気持ちはなんとも言えない。ただもう、すごく嬉しかった。私はMとして男の人のオチンチンをずっとなめているのがすごく好きなんだけど、なめられるのは好きじゃない。でも、その時はなめられたりすることも不快じゃなかった」  これによって、彼女のヴァギナへの抑圧が取れてしまったようだ。 「でも、普通にセックスできるようになったら、アナルセックスができなくなっちゃったの。面白いでしょ。アナルセックスは、いけないことをしているような気がした。ちゃんとセックスできるようになったのに、こんなことをしていちゃいけないと思った」  三カ月ほど、彼女は店にもほとんど出られなくなってしまった。しかし、生活をしていかなければならず、店でまた働き出してアナルセックスを再開したら、アヌスの快楽が復活した。 「そしたら今度はまた普通のセックスができなくなっちゃった。代々木先生に治してもらったのに、長年、そういうセックスをしてきたから、それが体についてしまったのかもしれない。両立しにくいんですね」 「もう傷は残っていないと思う」と語る彼女だが、完全に傷を癒すのは難しいものである。 「そういう自分に対する罪悪感みたいなものはない?」 「今はもうない」と彼女はきっぱり答えた。「自分がやりたいようにやっていけたら幸せだな」  このようにレイプのことを語れ、なおかつ、アナルセックスで達する自分を「これでいいんだ」と思えるようになったのだから、大変な進歩だ。いくらか残っているようでもある傷は、もう少し時間が経てば癒えることだろう。さすがは代々木先生である。  彼女には、Sの側に回ってみたいとの欲望も出てきていて、今後、改めて、自分の性のあり方を模索していくことになりそうだ。 「ビデオの中でペニスバンドをつけて男の立場にならせてもらったら、男の気持ちがすごくわかって、私にイタズラした人や強姦した人への憎しみがふっ切れたし、自分も許せるようになって楽になった。いい体験をしたな」  これがきっかけになって、最近はM女だけでなく、女王もやるようになっている。 「�いきなりどうしちゃったの�と店では言われてる。今までずっとM一筋だったから。でも、私は女王をやりたいわけじゃないかもしれない。ペニスバンドをつけて、男にペニスをなめさせていると興奮するんだけど、男になって男を犯してやりたいような気持ち」 「でも、Sの立場では肉体的には達するという状態がないよね。それでもいい?」 「いいの。ペニスバンドをなめてもらうだけで、達するかもしれないくらいに性的興奮がある。Mとしても、直接体に触れられなくても達したことがある。縛られただけで達したの。そんなことは滅多にないけど、Sとしてもイクことができるかもしれない」  今、彼女は転換期にあるようで、まだまだ変化を経ることになるんだろう。 「複雑だよね、私」  彼女の体験は、あるアナルセックス好きの女性のひとつの例でしかなく、彼女だけでアヌスの快楽すべてを決めつけてしまうわけにはいかない。アヌスという秘所までを男に任せる快楽や、膣よりも強い密着感によってアヌスが感じるという女性もたくさんいるだろう。しかし、性に対する恐怖や嫌悪によって、アヌスにより強い快楽を感ずる女性は決して少なくないとも思う。  アメリカの女性がアナルセックスに対して積極的なのも、アヌスへの挿入はあくまでセックスではないとの意味づけもあるように思う。生殖のためでない、純粋な快楽として楽しめるわけだ。  美菜ちゃんは「仕事でセックスは絶対にしない」と強く言った。彼女にとっても、アナルセックスはセックスではないのだ。 「もしすごくイヤな男と、セックスとアナルセックスとフェラチオと、どれかをしなければいけないとしたら、どれをする?」と聞いたら、アナルセックス、フェラチオ、セックスの順だと答えた。彼女にとっては、アヌスはたいしたことじゃないから感じることができるのだ。  レイプというのは、女性に対して、大きな影響を与えるものである。プレイはしても、レイプだけはしないようにしたいものである。  彼女はさらに実験を続けるために、ウンコをする努力をしてくれたのだが、どうしても出ない。そこで、最後にバナナを挿入して、ペニスバンドの人造チンポをなめる代わりに、バナナを私が食べることになった。マンコを眺めながら食べるバナナは絶品であった。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:この号の巻頭には、藤木美菜の肛門ドアップ写真が掲載された。陰毛なんかよりもずっと私には強烈だった。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:藤木美菜はしばしばエロ本に登場している。だいたいはアナルマニアだのM女だのといった設定で、相当ハードなことをやっていたりする。本人はこういう仕事が楽しいと語っていたが、いたぶられていたりする写真を見ると、どうしてもせつなくなってきてしまったりもする。幸せになってよね。 追記三[#「追記三」はゴシック体]:この原稿が私の「S&Mスナイパー」初登場である。「スナイパー」を読んだことのない人も多いことかと思うが、SM趣味がなくても非常に読みでがある雑誌だ。別嬪モデルが多いし、荒木経惟、天野哲夫など、連載陣も豪華である。なにより極端まで進んだ人の体験や思考は、自分の性を考える上でも参考になるのだ。「スナイパー」に書き始めたら、「スナイパーを読みましたよ」と人に言われることがよくあって、女性に言われたことも何度かある。あまり大声では言いにくいのだろうが、愛読者は多いのだ。一度買ってみることをお勧めする。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:今は「アナルは形容詞、アヌスが名詞」という原則に忠実になっているが、当時は「アナル」を名詞としても使用していて、文庫では直した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 5 聖夜を彩るスカゲロまみれの乙女たち[#「5 聖夜を彩るスカゲロまみれの乙女たち」はゴシック体]  奇妙な光景だった。大便をつまみ、しげしげと眺める。それを指でつぶして内容物をていねいに確かめ、「きれいに消化しているね」と呟く。  母親が子供のウンチを点検し、健康であることに安堵しているようにも見えるし、あるいはウンチが汚いことを学習する前の子供が、純粋な好奇心からオモチャにして遊んでいるようでもある。  やがて指ですりつぶした大便の中から何か見つけだし、嬉しそうに「ゴマ食べたでしょ」ともう一人に聞く。その作業に飽きると、今度は辺りに散った大便を拾い集めてオニギリを作り、体にこびりついたロウソクのカスを大便オニギリの上にちりばめる。完成したそれを捨てることもできずに、大事にとっておく。  そして二人は互いを「おかあさん」と呼び合う。  これは、撮影の間に何げなく見せた姿であり、撮影のための演出ではない。  ここに至るまで井本美子(二十六歳)と神草麻子(二十二歳)とが我々の前で繰り広げたのは、女同士ということを除けば、ありふれたSMの枠から逸脱するものでなく、巧みというほどではないにせよ手慣れたやり取りは、時に段取りっぽくさえあり、さほどの興味を抱かせなかった。  しかし、さんざん絶叫したあとにふと見せた井本の大便を愛でるような仕草や視線、恐らく始めは井本から発したものであろう、「おかあさん」という呼称などなどが、それ以降の彼女らのプレイを見る私から冷静さを奪い、内心、私はひどく動揺し始めていた。  撮影の前に話していると、井本は時折、答えにつまり、困惑した表情を浮かべ、今にも泣きそうになる。その姿に、思わずこちらはイライラしてしまう。もし、もともとの知り合いであったなら、「はっきりしろよ」などと大きな声を出し、頭のひとつもこづいてしまうかもしれない。  どうしてもいじめてしまいたくなる人間というのがいるものだが、彼女はその典型的なタイプなのだ。  神草にビンタされ、引きずり回され、ロウソクをたらされ、泣き叫ぶ井本の姿は、普段のオドオドする彼女の延長として、すんなり私の中に入ってきたが、大便で遊ぶ彼女の様子はどうしても違和感があり、それが気になって、この夜、私は寝られなくなってしまった。  私はウンコやゲロの話をするのが三度の飯より好きだ。 「飯を食べている時に、そういう話をしないでよ」などと嫌がる人もいるが、私に言わせれば、人が真剣にウンコの話をしている時に飯を食う方が悪いし、体を通る前にはグルメだのなんだのとさんざん持ち上げておきながら、体を通った途端に目を向けようとしないのは傲慢であるとさえ思う。  このようにスカトロ系の話に目がなく、そのあまりに『ウンゲロ』(シンコーミュージック)という本まで編集したこともある私に今回のレポートを依頼した編集部の判断は大変適切であったが、まさかここまで人間の深みをかいま見る体験になろうとは想像していなかった。私のウンコ好きなどあまりに底が浅いと今では言わざるを得ない。  こうして、九三年の十二月二十四日は、ウンコとゲロに彩られ、夢見るようなクリスマスイブとなった(ただし、幾分悪夢がかった夢である)。  今回、プレイを見物させてくれたスカトロ・シスターズ(勝手に私が命名)は、井本美子、神草麻子の二人組で、井本は主婦、神草はバイト生活をしており、彼女らはプライベートでもSMスカトロ・プレイをする関係にある。レズ、SM、スカトロの三つの異端を軽々こなすことの珍しさもあり、最近は雑誌やビデオでの登場も増えつつあるが、あくまでバイトのひとつで、これが本業とのプロ意識はさほどない。  顔を出せないのが残念だが、二人とも、見るからにウンコやゲロ好きなルックスというわけではない(見るからにウンコやゲロが好きなルックスって一体どんなんだ)。  井本は聡明そうな顔立ちで、ライター、イラストレーター、レイアウターあたりによくいそうなタイプに見える。でも、「仕事が好きで、一所懸命なのはわかるが、ちょっとヌケてんだよなあ」などと言われたりしそうな人物でもある。  神草はライブハウスのおねえちゃんが似合いそう。好き嫌いがはっきりしていて、客に媚びたりせず、いずれ店長と喧嘩していつの間にかいなくなったりするようなタイプだ(いずれも推定で、実際の私生活はどうなのかよくわからん)。  神草ははっきり物を言い、それがまた険のある口調にも聞こえる。生きたいように生きていることを彼女は強調し、それはそれで事実なのだろうが、自然に生きたいように生きている人間が、あれほど肩肘を張って自由であることを自己主張しないのではないかとも思う。  この二人が話しているところを見ると、非常に対照的だ。井本は神草と見事に逆で、自分が思っていることをうまく言葉にできず、それを自分でももどかしく思い、パニックになってしまうようなところがある。  こういう二人だから、プレイにおいても、神草が主導的な役割を果たし、井本がそれに従う。少なくとも表面的にはそう見える。  最初に始めたのも、神草がリードして井本を脱がせることだった。脱がせた井本の二の腕に、まだ新しい縄のあとがくっきりと浮き出ており、足などにも青アザがあることがすぐに目に入ってきた。どうやら井本は頻繁に調教されているようだ。神草がここまでの調教をやるとも思えないから、これらの傷痕を残したのは神草ではない誰かだろう。ここで早くも私は井本という女性がやけに気になり始めていた。  神草は井本をベッドに縛りつけて、型通りのいたぶりの言葉を浴びせるが、どうも段取り臭くて、面白くない。取材だから、しょうがないか。  その井本が次に神草をベッドに縛り付ける。手つきが意外にも鮮やかだ。ついさっきまでの自信なさげで脅えたような井本の表情が消えた。それに代わって楽しげな表情さえ浮かべて、見え方に十分な気の使い方をしながら神草の体に縄を巻き付けていく。 「手は縛らないの?」と編集者が聞いたら「手を縛ったら、何もしてくれなくなっちゃう」と井本は言って、神草の手を自由にしたまま、足に包帯を巻き付け始めた。まるで箱にリボンをつけるような手際のよさが、どうしてもさっきまでの井本のおどおどした様子とそぐわない。  幾度か包帯を巻直して、神草と縄と包帯のバランスを気に入った井本はローターを手にし、唾をつけて、神草の、小さめに見える膣に、ひょいっと埋め込み、ローターはすっかり奥に埋没する。井本はすぐさま包帯に結び目をつけて、それを肛門に挿入し始めた。  動きが機敏だ。ひとつひとつの行為に無駄がなく、着々と自分の美学通りに事を進めていく。どうも井本こそが、このプレイの主導権を握っているらしきことが薄々わかってきた。  そして、ブルブル、チャプチャプと音を出してローターが入ったままの神草の股間をなめ回す。神草が表情を歪めて声を出し始め、井本を叩く。井本が手を縛らなかったのはこのためだったのだ。  さあ、これからだという時に、井本は自分で用意してきた虫メガネを出して、膣や肛門の様子をじっと見始めた。滑稽な姿にも見えるが、彼女は自ら欲してこれをやっているのである。なんだかヘンだ、この女。最初からヘンなのが前提のプレイだが、予想していた方向のヘンとは完全にズレている。  結局、ここではそれ以上の高まりはなく、縛ったことのお仕置きとして、神草が逆襲に出た。 「さっきはよくも縛ったわね」と言いながら、井本の髪をつかんで引きずり回し、体中にロウソクを垂らす。井本の体に赤い斑が見る見るうちに広がる。大きく足を広げさせ、膣をめがけてロウソクを垂らす神草。泣き叫ぶ井本。  この時彼女は「おかあさん、ごめんなさい」との言葉を口にした。なんだ、「おかあさん」って。セックスの最中に「おかあさ〜ん」と叫ぶ女は私も体験したことがあるが、どうも井本がここに至るまでには家庭環境が大きな影を落としているのではないかと私はふと思った。  神草は消えたロウソクを井本に渡し、「オナニーして」と命ずる。ロウがこびりついて真っ赤になった陰部にロウソクを押し付け、井本は身悶えする。  壮絶な光景ではあって、本日の第一回目のクライマックスというところだが、こちらの気持ちは全然高まらない。編集者の顔を見ても私と同じようだ。撮影の現場というのは往々にしてそういうものだが、それにしてもあまりにいやらしさが漂わない。二人で遊んでいるようにしか見えず、どこか健康的でさえある。  女同士であることが、そのような空気を醸し出しているということもあろうし、プロとしての見せ方に甘さもある。またこれは所詮仕事であって、十分に入り切れないという事情もありそうだが、神草の罵倒も井本の叫びも、どこかそらぞらしく、彼女らの間には、そもそも性的な必然性がないのではないかとの思いもしてくる。本当に二人がプライベートでこのようなことをやっているのかどうか、私はちょっと疑い、目の前の光景よりも、虫メガネで性器や肛門を拡大してみせた井本の姿の方が強く私の脳裏に焼き付いている。  ここに何かありそうだ。  神草は井本の腹の上にまたがった。早くも脱糞である。それまで苦痛と快楽に身をゆだねていた井本が、神草の肛門を凝視して、今か今かと待ち受ける。 「私、肛門からウンコが出る瞬間を見るのが好きなんです」と語っていた井本が、その瞬間を決して見逃すまいとする様子は、いたぶられる立場、汚辱にまみれる立場のそれではない。電車の一番前に陣取り、嬉々として前方や運転士の手先を見つめる電車好きの少年や好きなミュージシャンがステージに出てくるのを待つファンにより似ている。もっと抵抗してくれなくっちゃ、SMらしくない。  幾度か肛門が収縮と弛緩を繰り返したのちに、浣腸の飛沫がほとばしり、やがて黒々とした、それはもう立派な大便が姿を現した。神草の顔は、脱糞する人の弛緩した安らぎに満ち、井本も満足げな表情を浮かべる。神草は今日のために三日溜めていたというだけあって、形といい、太さといい、色といい、惚れ惚れするようなブツである。  井本は出る端から、それを手にして、ためつすがめつ眺め、指で割って中を見る。ウンコの固まりのいくつかは、体から床に落ちたが、形が崩れない。いつも下痢気味の私は、最近、これほどの固さのあるウンコをした記憶がなく、心底羨ましく思った。  神草はベジタリアンのため、きれいに消化されたウンコであることが遠目にもわかる。しかも、不思議なくらい臭いがしない。  ウンコをすると神草はさっさとその場を離れて休憩となった。井本はウンコを食べてもかまわないというのだが、食糞は、このあとビデオの仕事でやることが決まっているので、今回はできないという。 「空気に触れないで口にいれるのが一番健康的」と井本は言うが、ウンコ食うのに健康を求めるのはどんなもんか。  神草がさっさと休憩に入ってから、冒頭に書いた井本の理解しがたい行動が始まった。  ウンコを指でつぶして、その内容を観察する。ゴマを見つけて歓喜の声を上げ、さらに寒天状のものを見つけて、それが一体何の消化物なのかを神草に聞いて確かめようとする。床に落ちたウンコを拾い集め、オニギリにして、ロウソクのロウをまぶす。  この間、ウンコを弄ぶ井本と休憩する神草は互いに「おかあさん」と呼び合い、井本は「おかあさん、ワンワンがいるよ」といった意味不明の言葉も口にした。ここにワンワンなんていないっす。ましてやウンコの中にはいないっす。完全に子供である。体だけ子供の小林亜星を見るような、居心地の悪い光景だった。  井本はウンコのオニギリを捨てようとせず、もうしばらくそのままにしておきたいと言って、逆さに伏せた洗面器の上に大事そうに置いた。  このこと自体への嫌悪感はさしてなかったが、私の中では動揺が始まっていた。何かが私の深いところに突き刺さったようだった。  ウンコの話は好きだが、ウンコそのものを私は愛しているわけではない。滅多にないことだが、立派なウンコが出たときは、しばらく眺めたりすることはある。しかし、手に取りたいとは思わない。いいウンコが出ると人に見せたがるのもいたりするが、私にはそのような趣味はない。  しかし、井本は本当にウンコが好きであるようだ。ウンコを愛でるような井本の視線が私を落ち着かなくさせた。SM的な関係の中で、好きな相手のためなら、ウンコのように汚いものを体の上にされてもいいとの従属感、あるいはウンコまで口にする屈辱で高まっていくのは理解できるし、そういった意味でのスカトロなら、もっと冷静でいられたろう。仕事と割り切ってスカトロをやってみせるのもまだわかる。金のためなら、人間、なんだってやる。「ウンコやゲロをするのは好きだけど、出したものをいとおしくは思わない。最近、少しずつ慣らされてきましたけどね」との神草の発言も十分に納得できる。しばしば性的な快楽に結び付けて語られるように、ウンコやゲロをする快楽は多くの人にあるものだ。  神草は、脱糞したあとスッキリした顔をして、自分のしたウンコには決して触れようとしなかった。神草の言動には何の違和感も感じないのだが、井本は、そういった文脈には収まらない。なぜあれほどウンコへのいとおしさを見せるのか。どうして、「おかあさん」と言うのか。ウンコへの気持ち悪さでなく、理解できないことの気持ち悪さに私は襲われたのだ。 「慣らされた」との言い方が象徴するように、ここでの主導権はやはり井本にこそあることは間違いがない。井本、お前は何者だ。  彼女らは、次のプレイの準備を始めた。風呂場で、吐くための牛乳やチョコレートドリンクを飲み、ミカンやトマトを次々に口に入れる。出すものの色までを考える彼女らにとって、用意してあった飲食物は十分ではなかったようだが、食べる勢いはすさまじく、吐くための食事風景は殺伐としたものでもあった。  食べたいからでなく、食べずにはいられないから食べ続け、そして吐き続ける摂食障害者を見るようだ。と思っていたら、事実彼女らには、摂食障害の過去があるという。  過食や拒食、あるいはその繰り返しを体験している女性は思いのほか多い。男に「もっと痩せろよ」とか「太った女は嫌いだ」と言われたり、「太った女はみっともない」「痩せた女が魅力的」との社会的情報を信じ込んでダイエットを始め、それがじて拒食になったりするといった薄っぺらな摂食障害の理解をしている人もいたりするが、それほど簡単な現象ではない。  このような言葉が直接の契機になり、本人の意識も「痩せたい」との切なる思いに支配されていたりするが、深層では家庭環境や幼い頃の原体験が関わっているものだ。  先進諸国で共通に見られる摂食障害という現象は、我々現代人が置かれた場所を浮き彫りにする。これを病気とするなら、競馬、競輪、パチンコ、麻雀などのギャンブルに熱中し、毎夜のように酒を飲んでウサを晴らすサラリーマンはいずれも病気であるし、私が古本を買い漁って飯代にも事欠いたり、頼まれてもいない原稿を何日も徹夜して書いたりしているのは相当の重病ということになる(そういう見方は正しくもある)。  ひたすら食べ、そして吐くのは自己表現の方法であり、治癒の過程に現れる現象や自己を辛うじて保つ知恵であるとも言え、これを無理矢理やめさせようとしても無駄だ。そこに向かわざるを得ない自己を徹底分析し、それが逃避であることを認めながら、そうである自分をも認めていくしかない。  スカトロ・シスターズの場合は、摂食障害者によくあるように、いずれも家を出て独立したことが契機となって、摂食障害から抜け出ていることからして、家庭環境が彼女らの摂食障害を招いていたに違いなく、彼女らが今やっていることも、摂食障害の過去とつながっているに違いない。  といったようなことを考えているうちに、大団円への幕が開いた。  自らも食べ続けながら、神草は井本の体を食べ物で飾り立て始めた。鼻の穴にミカンを詰め、ヨーグルトを頭に落とし、上からジュースを流す。トマトを体に投げ付け、膣にブドウを入れる。ナメコや納豆を股間にちりばめる。オメコにナメコ。  あたかも現代アートの作品であるかのようにも見える。事実、彼女らの行為にそれらしいコンテクストを与えれば、十分に作品として成立するだろう。過食アートとでも言うべきか。  神草のやることをそのまま受け入れながら、井本は黙々とつぶれたトマトやブドウを食べ続け、口に押し込まれた生卵を咀嚼し、嚥下し続ける。一見、作者は神草のように見えながら、この作品の本当の作者は明らかに井本だ。  二人は食い物や飲み物でドロドロになった体で湯船に入り、神草が井本の上にかぶさった。親鳥からの餌を待つ小鳥のように井本は下で口を広げる。  かつては二人とも吐こうと思えばいつでも吐けたというが、今は指を喉に突っ込まなければ吐けない。しかし、喉に指を入れて数回上下させるだけで、間もなくゲロのシャワーが始まり、すぐに井本の口は溢れ、井本の顔面が白とオレンジと茶と黄色の吐瀉物で覆われた。  普通の人だと、「オエッオエッ」と何度か喉を痙攣させてからようやく吐けたりするものだが、神草は実にスムーズに、ものすごい勢いですごい量の吐瀉物を井本の顔に落とし続けた。あまりに激しくて、吐いているという実感さえない。摂食障害の時代の習練を彷彿とさせる。しかも、神草の表情はまるで苦しげではなく、井本は井本で、ゲロが入らないように目をつぶって、神草の吐いたゲロを口にしっかりと受け止めて、淡々と口を動かし、少しずつ飲み込んでいる。  井本はゲロを飲み込むと、今度は自分で食べたもの、神草のゲロをさらに飲み込んだものをまぜこぜにして再び吐き、それを容器に溜めて自らの頭に一気に浴びせかけた。もはや目鼻さえわからない。それでもまだ口をモゴモゴ動かしている。そして、指でウンコを弄んだときと同じような表情で、さっきのウンコオニギリを体になすりつけ、食べ散らかしたものとゲロとウンコで身を包んだ。幸せそうな井本。よかったね、と声をかけてあげたくなる。  時間が経って発酵したためか、部屋中にウンコの臭いが立ち込め、ここに至ってようやく私は、これはスカトロ・プレイなのだとの思いを新たにした。  一通りのプレイが終わって、スカトロ・シスターズは湯船に浸かって、今日の疲れを癒す。この様子がまた楽しげである。  風呂から上がったスカトロ・シスターズに改めて話を聞いた。  彼女らはプライベートでもプレイをやっていると語り、そこに嘘はなさそうだ。 「知り合いの家の風呂でやって、怒られたこともありますよ」  誰だって怒る。たぶん彼女ら二人でやる時は、例の「おかあさん」といった言葉を連発し、女同士のスカトロSMでなく、女同士のスカトロ幼児プレイのようになるのだと想像できる。  神草は「好きな男となら、普通のセックスで満足できる」と語り、井本も「男性がダメで女に走るわけではないし、スカトロをやるわけでもない」と言い、二人とも男との体験は十分にある。性的な興奮とは別のところ、あるいはそれを越えたところに、彼女らのスカトロはあり、満たされない性的欲求のためにやるわけでなく、また、ウンコやゲロが汚いからやるのでも決してない。 「取材とかで、�汚い�とか�もういい�とかって言われるとすごく悲しくなる。母親だと、赤ん坊の鼻水をすすったりするでしょ。汚いなんて言ってられませんよ」と井本は言う。かく言う私も、汚いとの思いは臭いを嗅ぐまでほとんど感じなかった。それどころか、吐きっぷりのよさに感心し、ある種の爽快感さえあった。  であるが故にどちらかと言えば、淫靡なものや「うわーっ、汚ねえっ」といった嫌悪感を期待もしていた私にとっては、少々肩すかしを食わされたようなところもある。  どうも私がウンコやゲロの話を好きなのは、頭の中で汚さを増幅するからであるようにも思う。このように目の前であっけらかんとやられてしまうと、ダイナミックな見世物を見ているような気になってくる。  ただ、ゲロやウンコそのものより、彼女らの背後にある精神的な形には、ある種の怖さを感じた。この点では、「やめて、勘弁して」と抵抗するところに無理やりゲロを吐きかける方がよっぽど落ち着きがよかったようにも思う。 「この気持ちはやってみなくちゃわかんないですよ。松沢さんもやってみるといいですよ」  返事をしない私。  神草は思っていた通り、非常に厳格な家に育ち、父親からひどく暴力をふるわれたという。典型的な摂食障害家庭である。  摂食障害を持つ女性にはいくつかの共通の環境要素や体験があり、また、ほかの嗜癖を併せ持つケースが多い。ニンフォマニア、盗癖、薬物依存、アルコール依存、オニオマニア(乱買癖)などを摂食障害とともに持つ率が高く、性的虐待などのトラウマを持っている率も高いとされる。また、家庭環境で言えば、母と娘が共依存の関係にある場合が目立つ(斎藤学著『生きるのが怖い少女たち』光文社)。  共依存とは、厳格な父親を加害者とし、母と娘が被害者として傷をなめ合うような関係をその典型とする。戦後、女性たちは、社会に進出するようになった。しかし、結婚という名の誘惑には勝てず、また周りからの空気によって、ある段階で家庭に入る。男側は相変わらず、女は家に入って家事をやっていればいいとの観念を崩さず、女性は自己の欲望を押し殺す。その思いを子供に向け、過大な期待を娘が負う。また、暴力的な父親の被害者という点で母娘が傷をなめあう。  親は子離れできず、子は親離れできない。母と子は、時には父も、皆が「こいつは私がいなければやっていけない」と思い、そう思うことで自分の存在意義を保つ。実は、そう思っていなければ自分がやっていけないのである。親によっては、共依存関係を保つために、娘の幸福に嫉妬し、足を引っ張るケースさえある。  また、娘は、恋愛においてもこのような共依存関係を求めがちになる。どうしても、情けない相手や既婚者とくっついてしまったり、男に迫られると断れないニンフォマニア的な生き方となる。本人としては、単に「好き」といった恋愛感情しか意識できていないが、彼女らにとっては恋愛やセックスさえも嗜癖であり、恋愛感情の裏には家庭環境が大きく影響しているものなのである(これは摂食障害者に限らずだが)。  私の知っている範囲では、どういうものだか、語学留学とやらをする女性に、このような共依存関係がよく見られる。依存していてはいけないことを知ってはいるが、かといって自立することも、させることもできない。そこで互いに名目の立つ留学という飛び道具を使う。ところが、いざ留学すると依存する家族がいなくなって、セックスやドラッグに嗜癖の方向を向けることになる。  以上は、あくまで典型的な例であって、神草家がどうなのかまではわからないが、神草が自由に生きていると強調すればするほど、私には彼女が懸命に生きようとしているように思えてならない。  一方の井本は「家族関係でいろいろあったけど、話すと長くなるから」と、なかなか過去を語りたがらず、いくらか語ってくれたことはオフレコということなので詳しく触れることはできないが、やはり摂食障害の女性によく見られる体験や環境のいくつかを共有しているようである。  僅かな時間で聞いた僅かな話から、彼女らの人生までを分析してしまうのはフェアではないし、正しくもないことはわかっている。ましてや、スカトロに向う心性のすべてを環境的要因に求めたり、精神分析的に解釈してしまう気はさらさらない。しかし、私はこうでもして自分を落ち着けないではいられなかった。事実、この夜、どうしても井本のあの視線が脳裏を離れず、以前から買ってあった摂食障害の本を読んで、ようやく落ち着きを取り戻したのだ。  彼女らは、吐く快楽を「頭が真っ白になる」という言葉で表現したが、前出の『生きるのが怖い少女たち』には、摂食障害者がしばしば語る言葉として、「頭が真っ白になって、何もかもを忘れられる」という、ほとんど同意の言葉が紹介されていて、さらに話を聞ければ、彼女たちのやっていることが、摂食障害の延長線上にあることがよりはっきりするだろう。とりわけ井本は、現在もなお摂食障害であった頃と同じような環境にい続けているのではないかとも思ったりする。  かといって、それをやめるべきことなどとはまるで思わない。こうすることでバランスをとっているのだから、やはり私の古本漁りや原稿を書く作業と同じである。自覚的である限りは、どんどん進むがよろしい。  井本はスカトロをやる理由を「自分の解放」だと言い、神草は「自己浄化」だと言った。これは正鵠を射ていると思う。だからこそ彼女らの間には、性的な淫靡さが漂わなかったのだろう。  彼女らが一体何から自己を解放しようとし、何を浄化しようとしているのかまで正確にはわからなかったが、井本がいつかやってみたいと語った、虫がわいたウンコのプールに飛び込むことを実現して、徹底的に自分を解放できることを願う。そのときは、是非、また見物させていただきたいものだ。  一九九三年十二月二十四日、クリスマスイブをウンコとゲロのイルミネーションで飾ってくれたスカトロ・シスターズに改めて感謝しておこう。 [#ここから2字下げ] 追記一[#「追記一」はゴシック体]:この原稿が掲載された号には、ドロドロ、グチョグチョのカラーグラビアが掲載されていた。SMマニアでもスカトロ好きは決して多くないため、読者の受けは必ずしもよくなかったようだが、いろいろな人から「あれはすごかったね」と言われた。現場で見るより、写真で再現されたものの方がずっと迫力があるが、現場を知ってはいるから、「ウゲゲ」といった感情はあまり湧かない。しかも、他の脱糞写真とかを見ても、さして汚いなどと思わなくなっている。完全な耐性ができてしまったようだ。習うより慣れろってことだ。慣れてどうする。 追記二[#「追記二」はゴシック体]:この取材時には井本さんであった女性が卯月妙子という名で出演したビデオ「ウンゲロミミズ」(ケイネットワーク)が六月に発売された。ここでは自分のウンコを食ったり、ミミズを食ったりしている(私は写真でしか見ておらず、ビデオは未見)。 文庫版追記[#「文庫版追記」はゴシック体]:エロ雑誌を見ていたら、この文章のあちこちからパクッた原稿が出ているのを発見。ウンコするのを見られるより恥ずかしいと思うぞ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき、または長い略歴  先月で三十六歳となった。頬撫でる風に間もなく来る冬を予感する秋の夜、ついこの間までの猛暑を懐かしんでパンツを脱げば、金玉袋に幾本かの白髪。三十代後半ともなると、金玉袋を見てさえ歳をとったことを実感するものだ。  これを書くほんの二時間ほど前のことだが、「思想の科学」の連載のためにインタビューした女子高生の母親が私より一歳年下だと聞いて、えらくショックを受けた。そのお母さんは、一人前にチンチンくわえ込んだりする、こんな立派な高校生を作ったが、さて、私は三十六年間で一体何を作ったろうか。  共著や編著、フロッピーディスクによる刊行物を別にすると、この本は私の第一冊目の単行本である。これまでにも単行本の話はあったが、どうしても乗り気になれず、出すことが決まったというのに作業をやらないまま話が立ち消えになったものもある。  これから書こうとするものには思い切り興味があるが、既に書いてしまったものに興味がなく、フロッピーディスクも掲載誌もろくに保存していないから、過去の原稿を読み直すことはまずない。単行本を作る暇があるなら、発表のメドがなくても新たな原稿を書いていた方がずっといい。こういう人間だから、この本の話があった時も、鼻糞ほじったり、チンチンいじりながら書いた古い原稿を本にする意味なんてあるんだろうかとの気持ちを拭えなかった。だいたい既に私の本職は物書きではない。  学生時代のバイトを除けば、原稿を書いて最初にゼニをもらったのは二十代後半になってからだったと記憶する。小学校を五回、中学を三回転校する生活をしてきた影響か、ひとところに落ち着くことができない。大学時代は、ハンバーガー屋の店員(無茶苦茶似合わねえ)、ガードマン、家庭教師、塾の講師、テキ屋、通行量調査、本屋の店員、皿洗い、雑誌のリライトなどのバイトを次々したものだ。このような性癖は大学卒業後も続き、毎朝ネクタイをして満員電車に乗るサラリーマン生活から始まって、音楽、映像、放送、出版などの仕事を転々とした。  原稿を書くようになってからも常に別の仕事をやっていて、原稿による収入の割合は微々たるものだった。ところが、三十歳を過ぎて、そろそろどこかに自分の居場所を見つけた方がいいかもしれないと人並みのことを考え、よせばいいのに出版関係に仕事を集中させることにし、他の仕事を減らすようになった。一時は編集をやったりもしていたが、他人に原稿を頼むより自分で書いた方がずっと早くて要領がいいことが多いので、いつの間にやら売文業が意識上でも収入上でも私の本職になっていった。  一年以上先の分まで連載原稿を入れるなど、度を越したところがあるが、基本的に原稿は早い(ただし店員になってからは遅れがち)。下品な表現をするのが金玉にキズだが、マンコやチンポと書かないでくれと頼まれれば耳を貸さないわけではない。取材が嫌いで資料の調べ方、データの読み方もわからず、ネタがないとすぐにテレビのことを書くのが多いコラムニスト世代のくせして取材や資料調べが好き。しばしばディープなところに入り込み過ぎるが、フォローできる範囲は広い。経費を出さなくても勝手に自腹を切るばかりか、書きたいことが書けるならノーギャラでも原稿を書く。指定文字数の十倍の原稿を送ったりするが、編集部が原稿に手を加えたり削ったりしても、あるいは著者名を入れ忘れてさえ気にしない(本当は掲載誌を読み直さないので気づかない)。  といった特性により、原稿依頼は着々と増えて、プロのライターとしての意識も完成に近づき、収入のほとんどを原稿書きから得られるようになったちょうどその頃、私はプロとして物を書くことが自分に向いていないことを悟った。私の人生、大失敗である。  九三年六月より、私は店員となった。収入の半分以上がテレビの出演料や講演料であっても作家や映画監督、大学教授などと名乗ったりしていいように、自分の本職が何かは本人の意識の問題であり、それで言えば、現在の私の本職は店員だ。店員で収入を確保し、満足できることの少ない商業誌の仕事をやめ、ミニコミに好きな原稿だけを趣味で書いていく生活を構想したのである。世の中甘いが私が考えているほどは甘くなく、今に至るまで店員からの収入はゼロのため、相変わらず月に十数本から二十本ほどの原稿を書きなぐっており、少なくとも週に一日から二日は店の仕事で潰れてしまうから、今まで以上に忙しくしてしまっただけだ。  私がなりたかったのは単なる店員だったのに、経営者的なこともやることとなって、店を移転するための借金まで抱え込まざるを得ない始末である。このために、ギャラのいい原稿を優先するようになり、本来目指していたものとまるっきり逆の方向に事態は向かい出している。  こうして、とっくの昔に書き終えたものをいまさら単行本にしたって全然嬉しくないと思いながら、この単行本の話を承諾してしまった。こんなことをあとがきに書く物書きなどおらんだろうが、ゼニ欲しさで出来上がったのがこの本である(書かないだけで、どいつもこいつもゼニ欲しさで本を出しているわけですけど)。  しかし、今回改めて読み直したら、たかが一年二年前のものだというのに自分でもとっくに忘れていた内容だったため、意外にも読者として読み耽ってしまった。また、雑誌掲載時は文字数の制限のせいで削らなければならなかった部分を復活させ、書きたいのに書かないでおいたことを書き加えるなどの作業も存外に楽しく、単行本の仕事はゼニだけじゃない喜びもあるもんだと思い直したりもした。かつて取材したことが今どうなっているのかを調べたり、この機会に新たなテーマを取材しておきたくもあったが、店番や商品開拓に忙しくて手が回らなかったのが少々悔やまれる。これらは店が大発展して余裕ができたら、ミニコミにでも書くことにしよう。  今回はエロをテーマにした取材ものや体験ものを選んだが、この次はまるっきり違うテーマの本を出すことが決定しており、もちろんここでも主たる目的はゼニだ。  この本にせよ、次の本にせよ、女子高生ほどの使い途があるわけではなく、未来や夢があるわけでもないが、ひと時の暇潰しにでもなれば幸いである。  最後に、今回のゼニ稼ぎに協力してくれた同文書院の清水摂子さん、国広謙二さんに感謝するとともに、単行本の作業よりも店を優先したり、原稿や写真を探し出すだけでとんだ手間をかけたことをここでお詫びしておきます。また、本を出すことのもうひとつの喜びを教えてくれたミルキィ・イソベ氏にも心からお礼を言いたい。この本の最大の見所はカバーです。 [#地付き]一九九四年十月  なお、私が店員をやっている店タコシェについては、雑誌「ガロ」(青林堂)で連載している日記とタコシェの広告を参照のこと。また、プロのライターとしての自分に絶望した経緯は、フロッピーディスクブック『Q2のある素敵な暮らし』(さるすべり刊)、ミニコミ「ショートカット/24号」、同誌の別冊「ショートカット松沢呉一/1号」などに詳しく書いてあるので、興味ある方はそちらを読んでください。いずれもタコシェで取り扱い中(ただし、「ショートカット」は部数が少なく、売り切れの場合は容赦ください)。 [#改ページ]  文庫版あとがき  先月で四十四歳になった。  おかしなもので、文庫用に手直しした原稿を編集者に渡したまさにその日、本書に登場する二名の女性と新宿二丁目でたて続けに出くわした。彼女らには、この単行本が出て以降、一度も会っていなかったんじゃなかろうか。  この偶然に偶然以上の意味があるとも思わないのだが、不思議なくらい彼女らが変わっていないことを見て、では私はどうだろうと自分の身を振り返る契機くらいにはなった。  歳をとったと実感することが多いのだが、肉体的にはともかく、考えていること、やっていることはここ十年何も変わっていないような気がする。いい意味ではない。かといって悪いことかどうかまではよくわからない。  この単行本が出たのは八年前、原稿を書いたのは九年前から十年前。そろそろ「エロライター」と名乗り出してはいたが、まさかこれ以降、とことんエロの世界に浸りきり、「横丁の性科学者」よりも、「エロライター」「風俗ライター」と名乗るようになり、原稿のほとんどをエロ雑誌に発表し、性風俗産業がらみの原稿ばっかりになるとは私自身想像していなかったし、周りの人たちも同様だろう。  この本を読むと、当時から今と似たようなものではないかと思われそうだが、この頃は宗教や社会問題、サブカル系の取材も多数やっていて、エロはテーマのひとつでしかなかった。エロ系の雑誌に書き始めたのはまさにこの頃からなのだ。よりによって、単行本の一冊目として、こんなものを出したのが人生の大きな誤りだったのかもしれない。  とはいえ、この頃は今と違って希望に満ちていたわけでもなく、単行本のあとがきを読んでいただければおわかりのように、長期の低迷期にあって、ライターをやめようと本気で思っていた。しかし、店員で食っていく計画は挫折して、ズルズルとライターを続けている次第。ライターに希望を見いだしたわけでなく、それ以外の選択肢がないまま今に至っているだけだ。  したがって、その当時の混迷はあのまま今も続いていて、この先、何をやっていったらいいのかもよくわからないでいる。やりたいことがないわけではないのだが、私がやりたいことと世間様が求めることがうまく合致せず、その両者をうまくすりあわせたり、あるいは好きなことをやっていくことと生活することのバランスを辛うじてとりながら、なんとか今もライターであり続けている。  今回、数年ぶりにこの本を読んで、「この当時は何を見ても新鮮で、少なくとも取材している時、あるいは原稿を書いている時は楽しそうでいいなあ。ヘンにわかってしまった今となっては、こうも弾んだ文章は書けないよなあ」なんて懐かしみつつ、その実、当時と似たような原稿を書いている。  八年あるいはそれ以上経ったというのに、ライターとしても人としても、あれから一向に進歩していないような気がしないではなく、その意味では混迷はいよいよ深まっているかもしれない。  筑摩書房から文庫化の話をいただき、最初は別の本を文庫にしたいとのことだったのが、二転三転して、私の方から『エロ街道をゆく』を提案して、これに決定した。最近の読者は読んでいない人が多いだろうし、なにしろ今とあまり書いていることは変わらないので、十分楽しんでいただけるかと思う。  気楽に電車の中で読む文庫としては文章量が多いため、付録としてつけていた一章分はまるごと外したが、あとはほとんど単行本と同じで、単行本を出して以降のことはすべて「文庫版追記」という形で処理させていただいた。  なお、この続編とでも言うべき『エロ街道五十三次』『大エロ捜査網』が青弓社から出ているので、興味ある方は一読いただきたい。  暗いことばかりのこのご時世に、また、暗いことばかりのライター生活に、ご時世はともかく、私の生活にはちょっとばかりの明るい光をもたらす文庫を出す機会を作ってくれた筑摩書房の松本良次さんには「ありがとう」と心からのお礼と、「次もよろしく」と心からのお願いをしておく。    二〇〇二年十月三十一日 〈初出一覧〉   第一章 1〜16       「宝島」1992年9月24日号〜1993年12月24日号       (ただし10のみ未発表)   第二章 1〜12       「小説CLUB」1993年1月号〜12月号       (ただし10月号掲載分は未収録。3は未発表)   第三章 1「ビザール・マガジン」1993年 3月号       2「ビザール・マガジン」1993年 5月号       3「ビザール・マガジン」1993年 7月号       4「S&Mスナイパー」 1993年 8月号       5「S&Mスナイパー」 1994年 4月号 [#地付き]以上すべてに加筆 本書は1994年12月、同文書院より刊行された。 松沢呉一(まつざわ・くれいち) 一九五八年生まれ。音楽から宗教、著作権まで何でもこなせる器用なライターのはずだったが、いつからか性風俗関係の仕事ばかりのライターに。著書には「魔羅の肖像」「風俗就職読本」「風俗ゼミナール〈女の子編、お客様編、上級・女の子編〉」、また対談集に「ポップ・カルチャー」、編著に「売る売らないはワタシが決める」「ワタシが決めた」などがある。 本作品は二〇〇三年二月、ちくま文庫の一冊として刊行された。